2016夏マルメ・スコーネ・麦畑ぼんやり行(4)

coalbiters2016-08-13

水辺の遊歩道を歩く。

住み心地のよさ、あるいは街を住みこなしている感覚。

 運河沿いの遊歩道を散歩して感じたのは、ちょっと驚くほどのストレスのなさだ。緑が多い、水が流れている、鳥が沢山いる、人混みはない、しかし人通りが全くないのではなく、視界には誰かしら(特に女性やお年寄りや子供連れのパパやママ)いるので、誰にも気づかれずに身ぐるみ剥がれる的な状況は想定しづらい。バスが頻繁かつ密な網目を形成する一方で(複数路線走る場所では団子も珍しくない)自家用車は少なく、排気ガス臭さに鼻をつまむこともない。旧市街の街並みはおおむね歳月を経た様子だが、歴史的建造物の保存を墨守している訳ではないようで、いろいろな時代の様式が入り混じり、適度にごちゃごちゃしている。いずれも多少の格式は備えているが、荘厳だったり壮大だったり壮麗だったりといった次元にはほど遠いので、気楽に歩き回れる。実際、中心部は徒歩スケールの街であり、至るところにベンチが設置されており、足が棒になる気遣いもない。広場には日常的に野菜や果物やのみの市が出、買うにも眺めるにもただ通り過ぎるにも目に楽しい。等々。
 まあ、中心部だし、観光エリアだし、夏休みではある。観光名所には観光客の、地元の遊び場には青少年の多幸感が満ち溢れている。日も長いし、気候も快適だし(ただし、夏にこれだけ風が強いのだから、冬は結構厳しいのではないかとは思う。いくらスウェーデン的には南国で、ニースとかそういうロケーションなのかもしれないにせよ)。それにしても、この住み心地の良さはどうしたことか。日本語で読める治安関係の情報をぐぐって引っかかるのは、マルメはスウェーデンの中でも治安が悪い、「何故なら」移民が多い「から」で、移民による暴動も頻発しており云々といった記事ばかりであり、この通りであったら、一体どんなに荒んだ街なのかとおののかざるを得ないおどろおどろしさだったからだ。確かに、外国にルーツのある住民は多いらしく、金髪碧眼的ないわゆるスカンジナビア人ではない、肌が黒く露出の少ない服を着てヴェールを被った女性などが普通に歩いている。では、治安が悪いか、というと、少なくとも私が体験した範囲では全くそんなことはない。一度だけ、ショッピングセンターの窓に何か投げつけられたような穴が開いているのを見かけて、ちょっとびびったくらい。そして、外国人や移民の多さが治安の悪さと即座に結びつくかというと、当然のことながらNOだ。そこに因果関係が生じるためには、それなりの複雑なバックグラウンドが必要になる。
 なお、今回の旅では、ヨーロッパを旅行すると大抵一度や二度は遭遇する、「黄色人種の前に立ってこれ見よがしに差別的な独り言その他の嫌がらせをする不愉快なおっさん」に出会わなかったのも、快適だと感じた理由の一つかもしれない。単独行動の女性が続くあたりを狙って列に割り込んでくる卑怯者の糞野郎はいたけれど、それはまた別の話。気軽に表出しちゃうのはむしろそっちの方なんだ、とは思った。

水辺の遊歩道と街なかの生き物たち

 それにしても、中心部だし、観光エリアだし、夏休みだとしても、この居心地のよさはどうしたことか、と首をひねりながら街を歩く。下の写真はグスタフ・アドルフ広場。多分、市役所前の、昔の王様の騎馬像がある広場よりは庶民的な場所との位置づけらしく、青物市が出ていて、地に足がついた感じがいい。マルメ市の紋章グリフォンのモニュメントがあるが、細部まで公的な堅苦しさを維持するつもりはないらしい。

(マンホールの蓋の市の紋章)

グスタフ・アドルフ広場の天球の上に堂々と鎮座するグリフォンの像)

グリフォン像の細部。こいつ、腰パンでスケボか何かしてますよね?)
 このモニュメントの細部に限らず、街中には時々変な彫刻があったりする。

(建物の間の体操選手。お固そうな建物なのだが)
 水辺には鳥と猫たちがいる。鳥は本物だが、人に苛められた経験がないらしく、人間のことを舐めくさっており、カメラを向けても動こうとすらしない。ちなみに、私はここではじめて白鳥の雛を見た。確かにこれは醜いアヒルの子だなあ。灰色で、もしゃもしゃしていて、複数セットでいると水辺に巣食う謎のモンスターみたく見える。



 こちらは水辺を散歩し、くつろぐ猫(の彫刻)。彫刻の猫だとか、猫の足跡(のシール)は街の中でよく見かけたのだが、本物の猫にはついぞ出会わず。室内飼い専門なのだろうか。水辺の彫刻には他にも、持ち主のいない鞄や老若男女の靴などがあり、「収容所に送られたユダヤ人を記憶するためなのか?」と一瞬思ったりするものの、単に名もなき一般市民の遺品をモチーフにしたものらしかった。
 とはいえ一方で、ラウル・ヴァレンベリ(ワレンバーグ)の名前を冠した小公園があったり。日本人に判りやすく説明するなら、スウェーデン杉原千畝みたいな人で、ハンガリーで本来何の根拠もない通行証を発行しまくって多くのユダヤ人を救ったが、侵攻してきたソ連軍に拉致られ、そのまま行方不明になった外交官だ。マルメと何らかの関係があったのかは不明だが、とにかく大理石のモニュメントがあって、鴎たちの憩いの場になっていた。

(続く)

(夏の公園では、人間も彫像もあられもない格好でごろごろしている。遠くに見えるのは、スカンジナビア随一の高層建築ターニング・トルソ)

2016夏マルメ・スコーネ・麦畑ぼんやり行(3)

なぜマルメなのか:次に個人的動機。


 横というか、斜め後ろから撮ったために今いち貫禄のないマルメ中央駅。背後に見える建物は、今回泊まったサボイ・ホテル。駅からは運河を渡ってすぐなので、五分もかからない。外食が苦手なので、旅先ではどこで何を食べるかを考えるのが一番のストレスなのだが、マルメ中央駅にはセブン・イレブンがあるという事前情報を仕入れていたので安心していた。実際には、駅の中にコンビニもスーパーもフードコートもパン屋もあり、ファストフード店各種、スタバも完備なので、食事に横着な向きには実に楽ちんな環境だった。結果、ホテルの美味しい朝食と駅ナカご飯に栄養を頼る怠惰な生活に。ちなみに、アジアの東側方面の料理としては、タイ料理とSUSHIは独立したジャンルとして成立しているようだが、あとはアジア料理の中のバリエーションとして存在している印象を受けた。閑話休題

不況、ウォーターフロント開発、都市再生

 無事にマルメに着き、ホテルの部屋で一休みしてもなお明るいので、少し周辺を散歩することにした。初日は曇天で肌寒く、歩いている最中ににわか雨にやられた。傘をさす人はおらず、近くの軒先に避難してしばらく様子を見ている。かなり強い雨脚だったが、5分ほど降って止んでしまった。
 夏休みの天気の悪い日曜日の夕方だったからか、駅前の運河沿いの人通りはまばらだ。人が少ないかわりに、カモメは沢山いて、鳴き声が街の上に響きわたる。周辺の建物は概ね現代的だが、その横に百年くらいは経っていそうな煉瓦造の建物が残っていたりもする。運河沿いには遊歩道やウッドデッキが整備されていて、小綺麗だ。芝生、ハーブの植え込み、抽象的なモニュメント…

 船のスクリューのモニュメントとはさすが元造船の盛んな都市、とはいえ微妙に金比羅さんの奉納品めいているが、と近づいてみたら、日本のナカシマプロペラがマルメにある世界海事大学に寄贈したものとの銘板があった。やはり日本のセンスだったか。
 それはともかく、小洒落た遊歩道、小洒落た植え込み、小洒落たモニュメントの既視感は何だろう。没個性極まりないが、歩く分には安心快適であるし、多少のオサレ感もある。ああこれはお台場だ、と気がついて、旅行前のばたばたで失念しかけていた、マルメに行きたくなった別の理由をようやく思い出した。かれこれ十年近く取り組んでいるけれどもどうにも書きあぐねている小説の舞台となる都市のモデルに、マルメが当てはまるのではないかと考えていたのだった。具体的には、

  • 一定規模以上の大都市であること(人間関係が「知り合いの知り合い」で完結しない)
  • 港湾都市またはかつて水運が重要な位置を占めた都市であること
  • かつては工業都市として繁栄したが、産業構造の転換に際して相当苦しんだこと
  • 文化や知識産業と絡めたウォーターフロントの再開発を行うことで再生したこと
  • その結果として、ジェントリフィケーションが進展しつつあること
  • いろんなルーツの人々が暮らしていること
  • 北欧の都市であること

 最後の条件は私の趣味だ。この条件を付けなければ、東京の東側だってある程度は該当する。つまりは世界的な現象なのであり、それを北欧の歴史的社会的諸条件に置いた時、どのようなバリエーションとなっているのかを確認してみたかったのだ。少なくとも、水辺の遊歩道については東京と大差ないことは確認できた。

運河にかかる橋について

 マルメはかつては要塞だった前史があり、その痕跡はマルメ城だけでなく、旧市街の四方を区切る運河にも残っている。今では運河には何本もの橋が架かっていて、その欄干には作られた年代の記された銘板が取り付けられていることに気づいたので、陸地側の長辺を順にチェックしてみた。

  • Paulibron:1961年

  • Amralsbron:1937年(何故か黄金のサッカーボールが)

  • Kaptensbron:2013年

  • Davidshallsbron:1938年

  • Morescobron:2011年

  • Fersensbro:1914年

 こうして見ると、1914年をはじまりに、大体20-25年ごとに橋を架けているとおぼしい。景気のいい時期に少しずつ都市改造したのだろうか。街並みを見る限り、街区は同じ時代の様式で統一されているというより、どの街区もそれぞれに様々な数時代の建物のセットを取り揃えているような塩梅であり、含まれる時代・様式の量と幅とがその街区を特徴づけている。運河ボートツアーの流暢な2か国語を操るお姉さんも、「新旧の調和がこの街のいいところ」と力説していたので、乳歯の入れ替わりのような景観は、この都市のアイデンティティとして認識されているらしい。
 ところで、一番古い「1914年」という年は、第一次世界大戦の始まりの年であるより先に、マルメにおいてはバルト博覧会が開催された年である。1914年の5月から10月にかけて、マルメのPildammsparken(一世紀後に警察が野良イノシシを追いかけたという、あの公園)を主会場に、バルト海に面する5か国(スウェーデンデンマーク、ドイツ、帝政ロシア、ロシアの大公国としてのフィンランド)の芸術文化産業等を展示する博覧会が開催された。スウェーデンアーカイブに当時の映像が残っている。当時のマルメはすでに人口十万を擁する大都会だったが、博覧会の機会に大幅にリノベーションしたらしい。マルメ中央駅の前(つまり、運河の海側の長辺)にかかる橋も、確か「1914年」と書かれていた。なお、会期中にドイツとロシアが交戦状態に入ったため、展示されたロシアの絵画はスウェーデンに留め置かれ、戦後帝政ロシアがなくなってしまったので、そのままマルメの美術館に保管されたらしい。百年後の2014年に博覧会を記念した展覧会が開かれたようだ。さらになお、ボートツアーのガイド(承前)によれば、マルメの運河に架かる橋は第二次世界大戦や冷戦期、敵の潜水艦の侵入を防ぐための防衛線の役割を果たし、そのためにご覧のとおり、下面にはこうしてフックが取り付けてあるのです、ということだった。確かに、一面びっしり、サッカーボールでも掛けられそうな小さなフックが打ち込んである。冗談みたいに大真面目に。


(続く)

2016夏マルメ・スコーネ・麦畑ぼんやり行(2)

coalbiters2016-08-07

なぜマルメなのか:まずは実用的情報。

オーレスンド海峡の木更津としてのマルメ

 なぜ猛然とマルメに行きたくなったのかの理由は幾つかあるのだけれど、旅行的観点から言えば、単純に行くのが便利だからだ。マルメはスウェーデン南部の都市だが、地図を見れば判るように、デンマークの首都コペンハーゲンの海向かいだ。で、両者の間にある海峡には近年橋が架かって、鉄道だと30分ほどで行き来できると言う。両国はシェンゲン圏内なので、原則として国境でパスポートを見せる必要がない。つまり、成田から直航便でコペンハーゲン国際空港に着いたら、鉄道でコペンハーゲンに向かうのとほぼ同じ簡便さでマルメにも行ける。しかも、マルメの場合は、海を渡る、国境を越える、オーレスン・リンクという土木インフラを堪能する、という楽しみまでオプションで付いてくる。ならば、マルメの駅前に宿を取って、必要に応じてコペンハーゲンに通えばいいじゃないかと思った。千葉のホテルに泊まって、東京に遊びに行くようなものだ。千葉都民としては親近感を覚える。
 実際、コペンハーゲン国際空港からマルメに行くのは非常に簡単だ。鉄道駅は空港直結、券売機はタッチパネル式で説明は英語表記が選べ、マルメ中央駅とかコペンハーゲン中央駅とかの主要行き先候補は、はじめからスクリーンに表示されるから、目的の駅名に触れるだけでいい。支払いに関してはクレジットカードが極めて幅を利かせているので、ICチップ付きのカードを持っていて、かつ暗証番号を覚えてさえいれば、現地通貨のコインがなくても購入できる。少なくとも空港駅では、おたおたしていると、日本基準ではコミュ障に分類されそうな係員がぶっきら棒かつ親切に対応してくれる(ちなみに他の駅には、うろうろしている親切な係員は基本いないので、空港駅で大いにおたおたして、係員を使い倒して習熟しておくといいと思う)。ダイヤは20分に一本なので、おたおたして一本逃したとしても、基本、大惨事にはならない。
 とはいえ、当初予想していたほどには便利ではない。まず、料金がそんなに安くない。コペンハーゲン空港とマルメ中央駅の片道は、デンマーククローネで89DKK、スウェーデンクローナで110SEK、日本円に換算すると1300円超だ。往復で買えば多少の割引はあるのだろうけれど、気軽に日参できる値段ではない。次に、国境でのIDチェックの存在だ。2016年1月からスウェーデンデンマークの国境でIDチェックが行われることになり、コペンハーゲン方面からマルメ方面への直通列車は休止となり、全てコペンハーゲン空港駅での乗り換えとなった(国内へ流入してくる難民の増加に根を上げたスウェーデンによる措置なので、逆方向にはそのような対応はない)。空港駅ではホームに入る前に、デンマーク国鉄の係員に写真付身分証明書の提示を求められる。さらには、スウェーデン側の最初の駅Hyllieでも、当面スウェーデン警察によるIDチェックがある。結果、デンマークからスウェーデンへの移動に通常ダイヤ以上の時間がかかることになった。私はHyllieのIDチェックには遭遇しなかったけれども(もうやっていないのか、夏休みで警察官が足りなかったのかは不明)、駅ではかなり長い間停車していた。おかげで空港駅からマルメ中央駅までの4駅で40分位かかったと思う。オーレスン・リンク自体は10分かかるかかからないか位で通過してしまい、夢のようだった。

空港、橋、海底トンネル。そして風力発電の森

 デンマークスウェーデンを結ぶオーレスン・リンクは全長およそ16キロ、デンマーク側から順にトンネル部、人工島ぺベルホルム(近くに天然島サルトホルム(=塩の島)があり、それとの対比で胡椒の島になったらしい)、約8キロの橋梁部からなる。全長約15キロの東京湾アクアラインと距離的にはほぼ同規模だ。各種資料によれば、海峡を結ぶアイデアは20世紀初頭から何度も検討されていたものの、政治的・経済的条件が整った1991年、スウェーデンデンマーク両政府が建設に合意し、1995年に海峡部の工事着工、1999年に竣工し2000年から供用が開始された。時系列的には、英仏海峡トンネルの1994年、東京湾アクアラインの1997年、あるいは本州四国連絡橋の児島・坂出ルートの1988年(ちなみに、瀬戸大橋は2008年にオーレスン橋と姉妹橋になっている)、神戸・鳴門ルートの1998年、尾道今治ルートの1999年などに続く時期ということになる。特にヨーロッパ北部に焦点を当てるならば、デンマークでは、ユトランド半島とヒュン島の間のリトルベルトが1980年代に架橋され、コペンハーゲンのあるシェラン島とフュン島を結ぶグレートベルト・リンクが1998年に完成しており、オーレスン・リンクの完成によって、スカンジナビア半島が大陸に直結した訳だ。ヨーロッパの政治・経済的な統合と歩調を合わせて進んだ、ヨーロッパの物理的な連結、と言えるだろうか。

 写真はマルメの海岸から眺めるオーレスン・リンク。マルメの海岸からだけでなく、コペンハーゲン国際空港に向けて降下する飛行機の窓も含め、海峡周辺のあらゆるところから目撃される。眼下の海上に、あるいはたぷたぷと波打つ透き通った海水と低いところを素早く流れてゆく雲の列という天然そのものの光景の中に、定規で引いた線のように唐突に出現する橋のシルエットは何とも非現実的だ。橋の近くの洋上の数十基の真っ白い風車が林立する巨大風力発電所ともあいまって、人間が存在せず、機械やシステムだけが淡々と働き続ける別の世界を連想させる。
 とは言え、現実には橋はそこにあり、毎日橋を渡ってスウェーデン側からデンマーク側に、あるいはその逆に通勤する人々がいる。東京湾アクアラインが千葉県の木更津と神奈川県の川崎を15分程度で結ぶことで「千葉県の半島性が解消され、…対岸地域との文化交流が身近なものになるとともに、首都圏の物流が一層活発になる」(千葉県ホームページより)ことを企図して建設されたように、オーレスン・リンクは海峡両岸の370万人の人口を擁する地域を一つに結びつける役割を果たしていると、管理会社のホームページは謳っている。一方で、最近のスウェーデンの報道は、国境でのIDチェック開始から半年を経て、通勤客が被っているさまざまな不便について報じていた。通勤時間が倍になる、直通列車がなくなった、混雑するので座れないといった問題にとどまらず、デンマーク側での仕事を辞めざるを得なくなった人もいるようだ。それでも高所得者は電車通勤をあきらめて自家用車での通勤に切り替えることもできるが、それが難しければ仕事を替えることも含めた不便を甘受するしかない。皺寄せは低所得者に来る、とニュースの中で識者が言っていた。

旅の日程(その2)

2016年7月18日の旅程。
  • 0815/ホテル出発→街歩き
  • 1000/市立図書館
    • Kungsparken
  • 1130/マルメ城/マルメ博物館
  • 1330/ヴェストラ・ハムネン
    • ターニング・トルソ
    • 海岸沿い(Daniaparken/Skaniaparken/Gamla Dockan)
  • 1600/マルメ中央駅着
    • 72時間券の購入
    • 夕食
  • 1700/ホテル着

(続く)

2016夏マルメ・スコーネ・麦畑ぼんやり行(1)

coalbiters2016-08-03

まえせつ:旅の目的。

 本当は、去年の予定だった。何やら猛然と「マルメに行きたいぞ」という気持ちが湧いてきて、旅程をメモった。それはパソコンの前に一年ばかりずっと貼ってあったけれど、「マルメ」「カルマル/エーランド島」「ボーンホルム島」「オーレスンド海峡一周」とか書いてある。かなり現実逃避がしたかったらしい。いくら何でも一週間では無理だろ、その旅程。
 結局、ホテルと飛行機の日程を見比べて悩む段階で去年は諦めた。基本引きこもりの上に疲れる仕事が続いて、ほぼ全く言葉の通じない土地を万難排してうろうろするだけの気力がどうしても出なかったのだ。そうこうするうちに地中海で沈没する船と犠牲者の話題が何度もニュースサイトを流れ、トルコからギリシャ、バルカン、東欧、中欧へと難民の道が出来あがり、それがついには北欧にも達して、スウェーデンでは主要都市の市民が広場に集って彼らを歓迎した。マルメでも歓迎のデモがありましたという報道を読んだように思う。秋が深まってくると各地の難民の収容施設が頻々と放火されるようになり、どこかの学校に乱入した犯人が生徒と先生を殺害し、しかし相変わらずサッカーの試合のたびにズラタン・イブラヒモビッチが言及され、マルメでは中心部?の公園に猪が出たので警察が捕物をし(スウェーデン第三の都市じゃなかったのか)、ロマのキャンプが撤去されるというので支援者が抵抗の座り込みをし、難民の流入に根を上げた政府は国境でのIDチェックを行うよう法律を改正した。コペンハーゲンから鉄道でマルメに入る場合、途中でパスポートを見せなければならない。何ということだ、オーレスンド大橋が東京湾横断道路でなくなってしまうなんて、と思いながら、今年は何としてもマルメに行こうと決めた。ニュースばかり読んでいても、グーグルマップでいくらぐぐっても、今ひとつどんな土地柄なのか判らない。
 ということで、職場のカレンダーに夏休みの予定が入り始めたあたりで、航空券と駅から一番近いホテルを予約した。何しろ一年かけて情報を集めてきたから、余裕をかまして行きたい場所をのんびり吟味していたら、たちの悪い夏風邪を引いて寝たきりになってしまった。咳が一向におさまらない。怠くてたまらない。旅程を組むだけの体力が無い。その一方で、実は意外と使える旅行情報がない。直前になって焦りながら設定した旅の目的は、結局、以下のようなものになった。

  • マルメの街歩きをすること
  • ルンドに行くこと
  • 古代遺跡に行くこと
  • ルネサンス期の要塞にも行くこと
  • いろいろな博物館を見て回ること
  • 新しいカメラに習熟すること
  • チコ・ブラーエのウラニボルグを見に、ヴェン島に行くこと
  • これらの目的のために、いろいろな交通機関に乗ること
  • それを実現するための最低限のコミュニケーションは取ること
  • これらの目的のために、多分田舎の道をひたすら歩くこと
  • とはいえ、あんまり無理はしないこと

 したがって、「美味しい食事」「小洒落たカフェでの休憩」「ホテルに対する高望み」「メジャーな観光地」「買い物」「旅先での人との触れ合い」等々は、今回も旅の目的として想定されていない。あげく、毎日朝四時に起きてはその日の予定を立てるという、自分的には相当に行き当たりばったりな旅になってしまったのだった。なお、実際の旅程は次のとおり。

旅の日程(その1)

2016年7月17日の旅程。

 スカンジナビア航空の食事は、(少なくともエコノミー席では)いつものことながら、「食べる愉しみ」という観点からはセンスの欠片もないものだった。乗客を一定の時間をかけて輸送する以上、一定量の食事を供給して腹を空かせないようにする、という目的に特化したという点からは極めて合理的だとは感じたが、輸送される乗客の身としては、その現実はもう少しオブラートに包んで欲しかったとも思う。なので輸送される途中のささやかな楽しみは、近くの席の北欧系お兄ちゃん二人の行動を眺めることだった。機内が暗くなっている時間帯に携帯オセロ盤を出して額を突き合わせてゲームに熱中しているのは特に微笑ましかった。彼らがゲームを切り上げた後は、折角北欧に行く機会なので「レゴ・ムービー」を鑑賞した。凄く楽しいじゃないか。疲れて音声を切って眺めていたので、帰りは音声入りで観ようと楽しみにしていたら、帰りの便のプログラムには入っていなかった。今回の旅の心残りの一つである。

(続く)

あまりにもあからさまで、あっけらかんとしたディストピア:武雄市図書館(その2)

2:見聞の続き。

承前。この記事は、九州初上陸の一見さんが、武雄市図書館・歴史資料館を訪れた見聞記であって、余所者による第一印象を記したものです。帰宅後に調べたこととあわせた考察は後の記事で行う予定なので、あわせて参照されたい。

さて、武雄市文化会館、その庭園になっている鍋島の殿様の旧宅、地名を冠した神社などは徒歩5分程度の圏内に固まっており、図書館もまたその一角にある。遠くから見た図書館は、高からず、派手な自己主張をせず、周囲の景観に馴染んでいた(馴染みすぎていて、しばらく存在に気づかなかった)。「武雄・ザ・文化都市」の気負いを感じさせる文化会館とは異なるナチュラルな佇まいは、バブル期をくぐり抜けた後の比較的最近の建物なのだろうか。ひょっとすると指定管理者制度の導入にあわせてハコモノを建てたのかしらん、などと考えながら近づいていくと、9時の開館を前に、老若男女10人ほどの人々が入口前に並んでいた。どうやら日常的に利用されているようだ。


ところで、図書館の所在は判ったが、併設されているという歴史資料館はどこだろうか。インターネット上の情報や途中の案内表示は「図書館」だったり「図書館・歴史資料館」だったりと表記が揺れていたが、道路ぞいの看板には「武雄市図書館」とあるのみである。歴史資料館は冷遇されているような記事を読んだ記憶もあるので、あるいは入口も別で裏に追いやられたりしているのだろうか、と周囲を回ってみたが、それらしきものは見当たらない。一箇所、歴史資料館名義の貼り紙があって、関係者以外立入禁止みたいなことが書いてあったが、その先をのぞくと本当に職員用の通用口のような扉しかなかった。そこが歴史資料館だとしても、一般入口は別だろう。図書館入口に戻ってくると、開館していたので、いよいよ中に入る。
入口でまず目についたのは「館内撮影禁止」のマークであり、中に入って印象的だったのは、吹き抜けの空間だった。奥には一階二階ともに背の高い本棚が天井までそびえ、天井には古民家の梁みたいな木材が何本も走っている。入口向かって右がスタバのカウンターなのだが、その上には意図はよく判らないものの、白い布だか紙っぽいもので丸い天蓋のようなものが掛けられている。館内の色彩はシックで落ち着いた感じである。そこから近くに視線を戻すと、本(棚には「販売」の表示あり)やら案内(?)カウンターやらで入口付近の配置はごたついているものの、小洒落た、いい雰囲気ではないかと思った。なかなか過ごしやすそうなスタバだ。
しかし私はスタバに一服しに来たのではなく、次の列車が来るまでの間に武雄市の歴史資料館の展示をのぞき、ついでに噂の図書館を見てみようとしているのであって、のんびりしている暇はあまりない。入口向かって左は他からは区切られた部屋になっていて、CDとかDVDとかのスペースだった。のぞくと何だかTSUTAYA っぽい造りだったので、素通りして奥に向かう。空いたスペースで可愛い茶碗なぞを売っており、展示室っぽい部屋では市民美術展のようなものが開催されており、その先はトイレと多分事務室だ。
…歴史資料館はどこにあるのか?
武雄市図書館のサイトの館内案内を見ると、ここらが歴史資料館らしく、部屋の形状からすると、市民美術展をやっている部屋が展示室っぽいが、美術展をやっているからには、特別展示室で、常設展示は別にあるのだろう。というのも、美術展の部屋の前に電子看板が2台あって、一台は佐賀県下の他の博物館・美術館の展示の紹介を、もう一台は武雄市の歴史資料館がいかにすばらしい収蔵品を展示しているかの紹介をしきりに流しているからだ。
館内を探索する。図書館スペースには小部屋があったりするが、本棚と本ばかり、二階はやはり本棚の続く回廊と自習室。回廊は上までぎっしり本が詰まっているように思われたが、本の並べ方のルールがよく判らない。一応、図書分類法に則って配架されているようだが、防災だったか介護だったかの並びのすぐ上に、子供向けの漫画世界の偉人みたいなシリーズがずらりと並んでいたりする。防災(だか介護だったか)と世界の偉人シリーズに何の関連が? とも思ったし、これでは子供が自分で手に取ることができないではないか、と不審に感じた。子供に限らず、大人だって上の方の本は取れる位置にないが、そのような場合に備え付けられているべき梯子や踏み台の類がほとんど全く見当たらない。例えば、どうあがいても手の届かない上の方に新聞の縮刷版のバックナンバーがひたすら詰まっている。ご存知の通り、縮刷版は重くて大きいので、あんなところにあったら降ろすのが大変で、実質的には閉架にあるのと変わらないと思う。それにあんな重い物を上の方に置いていたら、大地震の時に転がり落ちてきて、危ないのではないか。前述の通り、利用者が自力で手に取る環境が整備されていない以上、そんなところに縮刷版を置くメリットが書庫に入れておく以上にあるとは思われない。さらに言うなら、中ぐらいに高いところ(手を伸ばせば届くあたり)の棚には黒いつっかい棒が横に張り渡してあって、その背後にある本を手に取るのはなかなか難しそうだ。この図書館では、蔵書はハリボテ、あるいは壁紙なのだろうか。図書館の蔵書を気軽に手に取ることができなくても、利用者は文句を言わないのだろうか。正直なところ、この図書館が蔵書で何をしたいのか、判らなくなってきた。
ともあれ、歴史資料館の常設展示らしきものはここにはない。一階に戻って秘密の小部屋めいたところに入ってみる。ここも天井まで本で、子供が一人、床に座って本を読んでいた。その一角に、ガラス扉の本棚があり、地域の歴史に関する著作や地域在住の著者による作品などが集められている。どの背表紙にも「館内閲覧」の赤いシールが貼ってあり、いわゆる郷土資料の棚らしい。ただし、ガラス扉には把手もないし、そもそも鍵がかかっていて押しても引いても開かない。さすがにこれには仰天したし、愕然としたし、恐怖を感じた。郷土資料こそ、その図書館が収集しなければ残らないもので、図書館を特徴づけるものと思うから。それを、保存のために書庫に置くでもなく、自由に閲覧できるでもなく、鍵のかかったガラスに陳列してこと足れりとする感覚は正直、私には理解できない。「館内閲覧」というのは、「館外に持ち出すことはできません」の意味で、館内では自由に手に取れるものと私はこれまで認識していたのだが、この図書館では違うのか。
かなりダメージを受けて、よろよろと蔦屋書店のスペースに戻ってくると、入り口付近の棚に市長の著書などと混じって歴史資料館の過去の図録が売られている。武雄市図書館についての本もあり、新しい美術館といったタイトルの本が周囲を囲んでいた。挑戦と改革と成功の雰囲気が満ち溢れているが、管見の限りでは、歴史資料館の常設展示はどこにもない。念のため、カウンターの中の人に訊いてみる。「今は常設展示はやっていなくて、年に何回か、期間を区切って展示しているんです。過去の図録はそこのラックにあるので自由に手に取ることができます。欲しい場合は書店の棚のものを買ってください」とのことだった。確かに特別展示室っぽい部屋の前に、パンフレットを差しておくようなラックがあり、図録が並んでいる。その横には、電子看板があって、歴史資料館で見られる筈の収蔵品の数々を金のかかったと思しき映像で紹介し続けていた。

結局、蘭学関係の面白そうな図録を一冊購入して図書館を後にした。歴史資料館の存在しない常設展示の仇は、長崎の出島で取った。レプリカの天球儀だったが、適切な解説と展示がなされるならば、それで何ら問題はないと思う。続く。

あまりにもあからさまで、あっけらかんとしたディストピア:武雄市図書館(その1)

1:意図と見聞。

連休直前の金曜日に福岡に用事ができたので、この機会に九州の北西部を回ってみることにした。九州ははじめてで、全くもって土地勘がない。とりあえず目的地を長崎に定めて、路線図を広げて眺めていた。すると途中に武雄温泉駅というのがあって、つまりこれはあの武雄市図書館の所在地ではないか。
武雄市の図書館については、毀誉褒貶さまざまな意見があるのを横目で眺めていて、話に聞く通りであるとすればあまり評価はできかねるのではないかと思っていたが、しかし一方で、ざっくりした一般論と個別具体的状況における評価は往々にして一致しないものでもあり、実際に見てみないと何とも判断のしようがない。アクセスを確認すると、駅から徒歩15分ほどで行けるようだ。おまけに併設の歴史資料館に蘭学関係の面白い資料がいろいろ展示されているらしい。(時刻表をめくる間)ということで、9時の開館に合わせて訪問してみることにした。
田圃から次々に上がる気球や、川に悠々と佇むアオサギなどを車窓に眺めるうち、列車は武雄温泉駅へ。かなり本格的なつくりの新しい駅で、鄙びた田舎の駅に馴染みかけた目には意外な印象を受けたが、外の垂れ幕が九州新幹線西九州ルートの武雄温泉−長崎間の着工を祝していたので、今後の発展も見越してのものなのかもしれない。
南口のロータリーを抜けると、幅広の直線道路が伸びていて、単に幅広の直線道路であるにとどまらず、歩道も広く、街路樹がいい感じに成長して、眺めもよく、歩くのに気持ちよい。さらにメインストリートに交差する裏道も直線のようである。碁盤の目状の街並みから推測するに、土地区画整理をやった新市街地だろうか。その場合、街路樹の成長から考えて、それなりの時間が経過しているようだ。市街の建物の密度は高くはないが、いわゆる「荒廃したロードサイド」的なところはなく、自律したまちとして着実に成長してきたのではないかと思われる。行き先の標識なども要所にあり、私のような一見さん極まりない余所者が一人でふらふら歩いていても不安を感じないという点でユニバーサルな街並みだと思った。今後、駅前開発などをうまくコントロールしていけば、住みやすく便利なよい街として発展していくのではないだろうか。

「図書館」の表示に従って歩いていくと、川があり、橋を渡ると「図書館」に変わって「文化会館」の表示があらわれて少し混乱するが、図書館の近くまで来ていることは確からしいので、文化会館の方も見てみることにする。
するとこれが実に堂々とした建物であって、赤煉瓦状のタイルで覆われた重厚なつくりなのだった。バブル期以降の日本を席捲したハコモノ公共事業のデザインにしてはいささか鬱陶しいほどに郷土の文化への愛と誇りを主張してやまない形状とやや古びたありさまからすると、70年代後半の文化の時代にでも建設されたのだろう。文化会館の向かいは、これもまた実に立派な日本庭園が広がっていて、説明書によれば鍋島の殿様の旧居だとか。さらに図書館を求めて周囲を回ると、地名を冠した神社などもすぐそばにあり、つまり文化会館は、たまたま取得できた土地ではなくて、郷土の歴史と文化のまさに中心地(少なくとも中心地の一つ)を選んで建てられたことになる。換言するならば、武雄市には、かつて、郷土(自分の住む土地をそのように把握することの是非はここでは措く)の過去を現在と未来に結びつける思考を備えた人々が存在し、一定の影響力を持ち得ていたということだ。これは口で言うほど簡単なことではなくて、郷土愛と教養と熱意とそれなりの実行力がなければかなわない。武雄は文化的な土地柄だったのだ。と私は推測した。(続く)

音楽としての物語:レイ・デイヴィス『アメリカーナ』

レイ・デイヴィスといえば、一昨年のフジ・ロックフェスティバルで、往年のキンクスの曲を聴衆への歌唱指導つきで披露したり、付箋だらけの自著を(当然英語で)朗読するなど観客の忠誠心を極限まで試した後で、「来年にはアルバムを出すよ。もう一度日本にも来るよ」などと調子よく約束したものである。そこで、私はその言葉を信じるべく、年甲斐もなくユニオン・ジャック柄のタイツなど買って待つことにしたのだが、結局、新アルバムも来日公演もないまま、秋になって一冊の本が出た。

Americana: The Kinks, the Road and the Perfect Riff

Americana: The Kinks, the Road and the Perfect Riff

キンクスは最もイギリスらしいバンドと枕詞のように冠されてきたのだから、そのリーダーの作品において、「アメリカーナ」というタイトルは十分に挑発的である。そしてサブタイトルはあたかもキンクスというイギリスらしさを体現したバンドのアメリカにおける栄光への道を示唆しているように思われる。確かに最もあらすじ的な部分においては、それは嘘ではない。白黒映画の西部劇などの中のアメリカに憧れた子供時代から始まり、いわゆるブリティッシュ・インヴェイジョンの一波としてアメリカに上陸するも何故か閉め出され、数年後に再び挑戦し、さらに70年代末から80年代にかけては本気で攻略して大ヒットを飛ばすさまが時系列に沿って描かれ、ついにはロックの殿堂入りを果たす場面がクライマックスとして置かれる――映画「十戒」の海が割れ荒野に雷鳴が轟くイメージを二重写しにして。
あまりに大仰である、と言うべきだろう。このようなサクセス・ストーリーを真に受けるわけにはいかない。何しろ著者は、かつて、近未来SF小説ディストピアで危険人物として監視される老レイ・デイヴィスにインタビューした若者によって描かれたレイ・デイヴィスの伝記、という体裁の「非公認自伝」をものしているのだから。そしてそのような目で眺めてみれば、ジャーナリスティックかつスピーディーな文体で記述される成功の場面がしばしば、皮肉な調子のクリシェで断ち切られているのに気づく。サブタイトルに暗示されるキンクスの栄光の歴史は、目くらましとは言わないまでも、本書の本質ではない。
むしろ、この物語をより適切に理解するためには、本書と同時期に再発売されたアルバム「マスウェル・ヒルビリーズ」を補助線にするとよいのかもしれない。イギリス少年のアメリカへの憧れ。ある社会を政治的に眺めるまなざし。厳しい現実と挫折。うんざりする今・ここに対して映画や音楽に象徴される輝かしいファンタジーの世界。そして何とも説得的に描かれる、へたれ野郎の心象風景。レイ・デイヴィスはトニー・ブレアの「新」労働党をほとんどビッグ・ブラザー呼ばわりし、急死した前任のジョン・スミスを(そのあまりぱっとしない外見とともに)哀惜する。アメリカにおけるキンクスや彼自身の活動はヴェトナム戦争ウォーターゲート事件、9.11などとの関わりの中で描かれる。そしてそれらの歴史的事件と関わりなく、レイ・デイヴィスはワーカホリック気味に仕事をし、ロマンスの冒険に直面すると尻込みし、スランプに陥っては無名の新人の振りをして音楽会社に行き、受付嬢に冷たくあしらわれてロビーでめそめそする。アメリカとイギリスの対立、現実とファンタジーの対立、自分と他のバンドメンバーとの対立、バンドと音楽会社との対立…様々な二項の対立が転調しながら続き、魅力的な細部の描写を繁らせながら物語を引っ張ってゆく。
それにしても沢山の引用、無数の固有名詞! あまりにも多種多様なものがひしめきあい、とっちらかりすぎてはいないだろうか? それに時系列が行きつ戻りつしすぎる。数年から十年さかのぼるのはざら、うっかりすると半世紀以上さかのぼって母の若い頃の話になってしまう。これは一体「いつ」の話なのか? ――レイ・デイヴィスは冒頭でそのことを明らかにしている。近所で発生したある残酷な強盗殺人事件に言及した後、彼は言う、今や自分自身が銃撃の犠牲者としてニューオーリンズの救急病院の病棟に横たわっており、そのために来し方を思い起こす時間ができてしまったのだと。エピローグではレイ・デイヴィスは怪我から回復して帰国するところ、女王陛下からCBEを授与され、長いことかかりきりになっていたアルバムを完成させるためにロンドンへ戻るところである。つまり、作中の時間は、レイ・デイヴィスがニューオーリンズで強盗に足を撃たれた2004年1月初頭からの(このドラマチックな出来事は歴史的事実である)一、二ヶ月間にすぎないのであり、その大半はモルヒネを打たれてうつらうつらしているレイ・デイヴィスの回想なのだ。意識が混濁しているのだから、回想が少しばかり前後しても仕方ないではないか。
実際、回想の中の時間は二手にわかれて絡まりあう。一方はせいぜいここ数年のスパンで、アルバムの準備をしているのだが一向にはかどらず、人間関係も難しいところにさしかかってニューオーリンズでいかにどん詰まっているかが生活の細部とともに思い起こされる。もう一方はより伝記的回想とでも言うべきもので、父母のなれそめの頃から自身の子供時代、デビューからバンドの各時代が直線的に回顧されるもので、直近の生活で行き詰まったりする場面に差し掛かると、レイ・デイヴィスの意識はこちらに飛んでしまうらしいのである。さらに彼はシンガーソングライターであるから、既発表のも未発表のも含めておびただしい自作の詩が引用されるし、文章のちょっとした言い回しの中にあの歌詞この歌詞を溶かし込んでいる節さえ感じられる。加えて彼は大の映画好きであるから、たとえとして映画の一場面がさらりと引かれるし、場合によっては一章分の場面をまるまる、ある映画作品と二重写しにして展開したりもする。その上、彼は古典や同時代の他の芸術動向にも通じているから、過去の自作は21世紀の人間となった一筋縄ではいかぬレイ・デイヴィス老の目を通じて解釈される。例えば、非公認自伝『Xレイ』では自身の個人的体験と結びつけられて語られていたカルト的大作(と言ってもいいだろう)「プリザヴェイション」2部作は、自国の政治状況を全く評価できない2004年のレイ・デイヴィスにとっては政治的諷刺であり、ブレヒト劇を参照して理解されるべき芸術的達成とされる……
勿論、2004年の夢うつつのレイ・デイヴィスの回想や解釈のある部分は、我々読者にとって眉唾であったりするだろう。とはいえ、本書の中の言葉が2004年の夢うつつのレイ・デイヴィスの意識の流れとして提示されていることは事実である。そしてレイ・デイヴィスは音楽家なので、そこに音楽的な構造を持ち込まずにはいない。
音楽が自分にとっていかに重要であるか、それが自分にとって外界とのほとんど唯一のコミュニケーションの手段であるから、ということを本書においてレイ・デイヴィスは繰り返し述べる。彼は他人を識別するのに、その人物から感じられる音楽をもってする。創造力が好調の時、彼は自分の中に絶えず湧き出すリズムを感じている(スランプになると、それが聞こえなくなるのである)。そしてその音楽の波は人生の山谷とある程度は重なるとは言え、全く帯同している訳ではないのだ。イギリスとアメリカという二項の対立から始まって、本書はさまざまな二項対立を変奏してゆくが、次第に創作上のスランプと思うにまかせぬ人間関係がクローズアップされてゆく。銃撃される直前には二項対立が崩壊するくらい日常生活は混沌をきわめ、ある日、ニューオーリンズの路上で、レイ・デイヴィスは彼にとっての音楽の天使とも言うべき友人の後ろ姿を見失う。それから彼は娘の暮らすアイルランドに行き、人気のない崖の道で運転をあやまってあやうく転落しかかるのだが、ずり落ちかかってあたふたしている最中に再び自分の中にリズムを取り戻す。その後、ニューオーリンズに戻ったレイ・デイヴィスはつきあっていた女友達ととうとう別れ、さらには強盗に撃たれて死にかけることになるが、彼の中のリズムは、時に心臓の音となりながら、もう彼から去ることはない。この音楽の波は耳を澄まさなければ聞き取れない微妙なものだが、本書の構造上のクライマックスはこの波とともにある。やがて、昼と夜、過去と現在といった二項対立が再び現れはじめ、冒頭を覆っていたアルバム「Phobia」的悪夢が世界に垂れ込める中、白黒映画の西部劇がもう一度思い起こされ、とりあえず希望らしきものをつかんで(彼の音楽の天使である友人は、出立するレイ・デイヴィスを見送るために思いがけなく空港に現れる)、物語は終わる。
多層の読み筋、多彩な言葉、多様な文体は互いを照射しながら本書をかたちづくる。例えばギターが派手なリフを披露したり、トランペットが突然吹き流されたり、キーボードが変幻自在に雰囲気を作り、背後でリズム隊が着実にリズムを刻んでいたりするように。とすればこれは言葉によって作られた音楽であり、来年にはアルバムを出すよと言った苗場のレイ・デイヴィスは、あながち法螺を吹いていた訳でもなかったのかもしれない。彼の他の作品と同様、本書もまた、愛すべきスルメである。