「ファンタジーの美しさ」についての数千字(intermission)

intermission:「プロパガンダ」についての私的な思い出

(承前)

 

coalbiters.hatenadiary.org

 
 ということで、「羅小黒戦記」についてだ。
 と書き始めようと思ったが、なかなか筆が進まない。なので、話は少し逸れるけれども、私が一連の雑文を書くきっかけとなった「プロパガンダ」という言葉に関する、私の私的な思い出を記しておきたい。



 若い頃、というかほとんど20代が終わる頃まで、私はあることについて、日本政府も、マスコミも、創作者たちも、全てがグルになってプロパガンダを繰り広げているのだと信じていた。もちろん、そんなことがあり得ないのは、理性ではわかっている。けれども、自分には全くそうとは思えないこと、自分は全くそうはしたくないことについて、さも当然である、素晴らしいものである、当然すべきであるものとされている、それも、一つや二つの作品でではなく、ほぼ全て、ありとあらゆる場所においてだ。人間は誰もが同じように感じ考えるもの、という日本的教育の価値観を前提にするなら、合理的に考えて、それは誰もがグルになってのプロパガンダでしかあり得なかった。


 で、「あること」とは何なのか。
 それは、「男女は惹かれ合うものであり、恋愛したいものであり、セックスしたいものであり、結婚その他もしたいものであり、それはもうとにかく空気のように自然で当たり前の感覚なのだ」という異性愛規範だ。


 私は、これまでの人生において、別段異性に惹かれなかったし、誰かを「好き」と思ったとしてもそれは異性ではなかったし、異性(女性)として好かれていると知った時点で、アウトになるような人間だった。そもそも、自分の性別にしたところで、社会的に登録されているところの女性だと認識している訳でもない。結婚に関しては、我が家では「女は結婚して婚家の奴隷になり、とにかく子を産む存在なのだ」と教育されてきたので、結婚するという選択は論外で、結婚しないで済むために、ありとあらゆる努力をした。自分が性的マイノリティなのは当時は知らなかったし、他所で我が家ほど頭のおかしい教育がなされているとも思わなかったが、結婚が現に家事育児の負担を女性に負わせていることが統計上も明らかな以上、世の中に、作品としても、それ以外の言説としてもあらゆるところに浸透する異性愛規範は、(特に女性たちに向けた)洗脳のためのプロパガンダなのだと、ごく自然に考えた。



 見事なまでの陰謀脳だよね、笑っちゃう。と、今なら言える。当時の私は幾つかの点では正しかったが、幾つかの点では間違っていた。
 最大の誤りは、「人間誰しも同じように感じ考えるもの」という日本的教育(だと私は思っている。「普通の人と同じように感じ考えられないのは、お前が人として間違っているからだ」と激詰めされるアレである)の世界観にとらえられ、自分の感じ方を他者にも敷衍してしまった点にあるだろう。おそらく一定数の人々、ひょっとすると少なからぬ人々にとって、異性を好きになる、ということはごく自然な営為なのに違いない。だから、世に流通する言説の多くが異性愛規範を当然の前提としていたとしても、それは単に作者の自然な感慨の発露だったにすぎなかったのかもしれず、全てを十把一絡げに「プロパガンダ」と決めつけるのは、あまりにも粗雑だった。
 とは言え、個人としての自然な考えがどうであれ、例えば日本国の政府広報が、あたかも異性愛規範のみを自明の前提として垂れ流すとしたら、私は当然に批判するだろう(もちろん、そういう意見でない人も世の中にはいるだろうが、日本は基本的人権をはじめとする諸権利を擁護する民主主義国家の筈なので)。また、とあるクリエイターが異性愛規範以外の考え方を抑圧する観点から作品を創作したと公言した場合、それに対して「プロパガンダ」だという批判はあるかもしれない。一方で、明々白々にプロパガンダとしての意図をもって作られたにもかかわらず、その意図を裏切る何ものかになっている作品、というのもあり得る。あるいは、クリエイターが、現時点における最も一般的な状況として、単に作品展開上の何らかの効果を得るための方便として選んだ可能性もあるし、むしろ現在の状況を批判的に逆照射するためにあえて選ぶこともある。
 私が当時犯したもう一つの誤りは、だから、ケースバイケースで問題を検討することをせず、その遥か手前で引き返してしまった点にある。そのような地点で呼ばれる「プロパガンダ」は、基本的には相手を攻撃し、貶める意図しか持たない。実際、当時の私は、目も鼻も口も定かならぬ、巨大な敵に飲み込まれまいと必死だった。職場の飲み会では、同僚から好みの異性について問われ、上司にはあからさまに個人名を出されてくっついたらどうだと言われ、家に帰れば「早く結婚しろ」と連呼されるくらいならマシで、油断していると見合い話が入って来たりし、あらゆるものが自分を押し潰そうとする。そうこうしているうちに、親しい友人達の結婚式の招待状が届き始める。私は混乱した。友人達を祝福したかったが、彼女らは今や敵に取り込まれてしまったのでは?


 笑っちゃう。と今では思う。悩んだ末に私が出した結論は、きわめて常識的なものだった。異性愛規範に関する言説については、引き続き批判的な問題意識を持ち続けるが、陰謀論的なプロパガンダで十把一絡げにせず、ケースバイケースで検討する。人間関係については、相手が私(及び私と同様に嫌だと思う人)に異性愛規範を押し付けない限り、これまで通り付き合う。そうでない場合は、煮るなり焼くなり切るなり、好きにすればいい。



 閑話休題
 「羅小黒戦記」を見た時、私はストレスの無さに驚いた。何より、(日本においては)アニメや漫画に漏れなくついて来て、不快に思いながらも耐え忍ぶべきオプションと私が思い込んでいた下ネタ、性的に消費される存在としての女性キャラ、あるいはけったいな声や口調で喋る女性キャラ、セクハラに類する場面、無理矢理ねじ込まれる恋愛、あるいは男らしさの誇示といった要素がないことに。それらが存在しないこと、登場人物がオリエンタリズム的な他者ではなく、それぞれに他者として尊重されて描かれていることに。その快適さは筆舌に尽くしがたかったし、それが当然なのだと思った。
 日本の全ての作品が私が感じたようなものだとは、私も思わない(だって語れるほどの量を見てはいないから)。しかし、幾つかの不快な表現があった時、オタクは隠れるのが当然という時代を経てきたオタクであった私は、その不快さについて批判するのではなく、黙ってオタクの世界から離れ、身を隠したのだった。
 それは色々な意味で間違っていた、と「羅小黒戦記」を見て私は思った。不快を葬り去って無かったことにするのではなく、不快の不快たる原因を突き止め、必要に応じて批判し、議論を深めていかなければ何も始まらないのだ。20年前には失敗したとして、また同じ轍を踏む必要はどこにも無い。



…「プロパガンダ」?



(続きます)(多分、来週以降にまた…)