「ファンタジーの美しさ」についての数千字(その1)

その1:まえせつ(用語の定義とか)


 連休に入って、布団の中でごろごろしながらTwitterを見ていたら、映画版「羅小黒戦記」を中共プロパガンダと見なす、いささか大ざっぱすぎる感想が流れてきたので、何となく自分にとって「ファンタジー」とは何か、というようなことをずっと考えていた。というのは、私にとっての「羅小黒戦記」の(数ある)魅力の一つは、現実を補助線とした場合の「ファンタジーとしての美しさ」の絶妙なバランス感覚にあると感じていたからだ。



 さしあたり定義しておくと、自分にとって「ファンタジー」とは、「虚構」と「現実」(幅広く取るためにカッコをつけておこう)との間の適切な距離を設定するロジック、なのだと思う。


 具体的に言えば、トールキンの「指輪物語」は私にとってファンタジーだ(というより、私の中では「指輪物語」が絶対の基準としてあって、それを基に自分のファンタジーの定義を考えてきたのだから、当たり前の話ではある)。我々が読む「指輪物語」は、簡単に言えば、「世に知られていない写本を(おそらくは学者である)作者が校訂した上で現代英語に翻訳したもの」だ。「指輪物語」の序章には、ホビットに関するいくつかの特徴的な事項に関する説明に加えて「ホビット庄記録に関する覚え書き」という節が含まれるが、この辺は岩波文庫とかの冒頭にある、古典のテキストについての凡例とほぼ同じである。このような学術的な手続きによって現実との連続性を担保しながら、一方で、ビルボやフロド自身が書いたとされる「西境の赤表紙本」の原本はすでに失われたとされ、原本→写本→校訂→翻訳という複数の過程の提示そのものが、ズレや虚構性が入り込む余地を示唆する、という念の入れようだ。
 あるいは、ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレスで印刷された作品。中世風・ルネサンス風の外貌をまとった「もの」としての本を実在させることは、創作された作品を現実世界の過去と結びつける仕掛けと見ることもできる。


 ひょっとすると、写本(ないしは稀覯本の外見をまとった印刷物)はファンタジーを成立させるためのもっとも手っ取り早い手段なのかもしれない。いざとなれば、それらは捏造することだってできる。
 ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」も、世に知られていない写本の発見と作者(のみ)による閲覧、写本の喪失を作品の前提に置いているという点で、ファンタジーの形式を踏んでいる。もっとも、冒頭部分におけるエーコの写本の取り扱いはほとんどクリシェであって、トールキンほど写本の取り扱いの学術的な側面には重きを置いていない(本編が写本を扱った物語であるにもかかわらず)。それは多分、エーコトールキンのようには「第二世界」の実在性に切実な意義を見出していない一方で、「虚構」と「現実」をつなぐアイテムとしての写本のいかがわしさにより自覚的であったためだろうし、エーコ自身も(私含め)読者も、「薔薇の名前」を積極的にファンタジーとして受け取ってはいないと思う。ただし、トールキンが手続きを厳密に踏んだために、他の作家たちはそれを省略することが可能になったということは言えるかもしれない。


 もちろん、別のやり方もあって、例えば、作品内の「現実」と「別世界」とを通行可能にするアイテムを設定するのだっていい。「ナルニア国物語」の洋服箪笥、「はてしない物語」のバスチアンが読む本などがそうだ。ハリー・ポッターシリーズにおけるホグワーツ特急も同様の役割を担っている。ただし、ハリポタシリーズは、「現実」とおぼしき世界に虚構が混在するという点で、「虚構」と「現実」の関連により精密さが求められるにもかかわらず、その部分の処理がかなり雑なので、私の定義からすると、少なくとも良いファンタジーではない。

 

 付言するなら、私の定義からすれば、「これは商業的にファンタジーとして流通しているジャンルの作品だからファンタジー」というロジックの作品も、ファンタジーとして成立しうる。しかし、まあ、…それもいいけど雑だよね、という話。ファンタジーとして美しいか美しくないかといえば、私の考えでは美しくない。



 以上が、自分にとってのファンタジーの定義だ。ただし、今回あげた具体的な例は、手続きに関する部分にすぎない。当然、「では話の中身はどうなのか」という疑問は生じるし、生じるべきだとも思う。そして、この点について私は、ファンタジーにおいては「書かれていること」は「手続き」との関係性の中で判断されるべきだと考えている。
 ひょっとすると、このような考え方は小説なり映画なりの作品を読み解く上では必ずしも一般的ではないのかもしれない。むしろこれは自分が専攻した歴史学の方法論に近い問題意識ではないか、とも思っている。歴史学というのは、(過去のどこかの段階で捏造ないし改竄ないし誤記されたものも含む)有象無象の史料を基に、先行研究や史料批判を踏まえた上で「どこまでなら言えるのか」「どのような説明が最も適切なのか」を何らかの文章等のかたちに落とし込んでいく営為だ。手続きと最終的なアウトプットのクオリティは厳密に関連している。逆に、そこがガバガバであれば、何でも好き勝手なことが言えてしまうというのは、昨今の歴史修正主義の隆盛を見ても容易に理解できると思う。
 世間でファンタジーと呼ばれる作品の多くは、直接・間接に神話・伝説から題材を取っている。そして神話・伝説の研究と受容は、19世紀から20世紀において、歴史の場合と同様に、ナショナリズムと密接に結びついて発展してきた。そのことはファンタジーを読む上で批判的に頭に入れておいた方がいいし、歴史の分野で未だにナショナリズムと結びついて歴史修正主義が活発である以上、歴史学の方法論を応用したロジックの読解、という視点からファンタジー作品を読むことは、あながち無意味でもないだろう。



 といったあたりを前説として、次回以降、2019年に公開された2つの映画、「トールキン」と「羅小黒戦記」を「ファンタジーとしての美しさ」という観点から考えていきたいと思う。



(続く)(ちゃんと続くかな)(体力が続けば…)