音楽としての物語:レイ・デイヴィス『アメリカーナ』

レイ・デイヴィスといえば、一昨年のフジ・ロックフェスティバルで、往年のキンクスの曲を聴衆への歌唱指導つきで披露したり、付箋だらけの自著を(当然英語で)朗読するなど観客の忠誠心を極限まで試した後で、「来年にはアルバムを出すよ。もう一度日本にも来るよ」などと調子よく約束したものである。そこで、私はその言葉を信じるべく、年甲斐もなくユニオン・ジャック柄のタイツなど買って待つことにしたのだが、結局、新アルバムも来日公演もないまま、秋になって一冊の本が出た。

Americana: The Kinks, the Road and the Perfect Riff

Americana: The Kinks, the Road and the Perfect Riff

キンクスは最もイギリスらしいバンドと枕詞のように冠されてきたのだから、そのリーダーの作品において、「アメリカーナ」というタイトルは十分に挑発的である。そしてサブタイトルはあたかもキンクスというイギリスらしさを体現したバンドのアメリカにおける栄光への道を示唆しているように思われる。確かに最もあらすじ的な部分においては、それは嘘ではない。白黒映画の西部劇などの中のアメリカに憧れた子供時代から始まり、いわゆるブリティッシュ・インヴェイジョンの一波としてアメリカに上陸するも何故か閉め出され、数年後に再び挑戦し、さらに70年代末から80年代にかけては本気で攻略して大ヒットを飛ばすさまが時系列に沿って描かれ、ついにはロックの殿堂入りを果たす場面がクライマックスとして置かれる――映画「十戒」の海が割れ荒野に雷鳴が轟くイメージを二重写しにして。
あまりに大仰である、と言うべきだろう。このようなサクセス・ストーリーを真に受けるわけにはいかない。何しろ著者は、かつて、近未来SF小説ディストピアで危険人物として監視される老レイ・デイヴィスにインタビューした若者によって描かれたレイ・デイヴィスの伝記、という体裁の「非公認自伝」をものしているのだから。そしてそのような目で眺めてみれば、ジャーナリスティックかつスピーディーな文体で記述される成功の場面がしばしば、皮肉な調子のクリシェで断ち切られているのに気づく。サブタイトルに暗示されるキンクスの栄光の歴史は、目くらましとは言わないまでも、本書の本質ではない。
むしろ、この物語をより適切に理解するためには、本書と同時期に再発売されたアルバム「マスウェル・ヒルビリーズ」を補助線にするとよいのかもしれない。イギリス少年のアメリカへの憧れ。ある社会を政治的に眺めるまなざし。厳しい現実と挫折。うんざりする今・ここに対して映画や音楽に象徴される輝かしいファンタジーの世界。そして何とも説得的に描かれる、へたれ野郎の心象風景。レイ・デイヴィスはトニー・ブレアの「新」労働党をほとんどビッグ・ブラザー呼ばわりし、急死した前任のジョン・スミスを(そのあまりぱっとしない外見とともに)哀惜する。アメリカにおけるキンクスや彼自身の活動はヴェトナム戦争ウォーターゲート事件、9.11などとの関わりの中で描かれる。そしてそれらの歴史的事件と関わりなく、レイ・デイヴィスはワーカホリック気味に仕事をし、ロマンスの冒険に直面すると尻込みし、スランプに陥っては無名の新人の振りをして音楽会社に行き、受付嬢に冷たくあしらわれてロビーでめそめそする。アメリカとイギリスの対立、現実とファンタジーの対立、自分と他のバンドメンバーとの対立、バンドと音楽会社との対立…様々な二項の対立が転調しながら続き、魅力的な細部の描写を繁らせながら物語を引っ張ってゆく。
それにしても沢山の引用、無数の固有名詞! あまりにも多種多様なものがひしめきあい、とっちらかりすぎてはいないだろうか? それに時系列が行きつ戻りつしすぎる。数年から十年さかのぼるのはざら、うっかりすると半世紀以上さかのぼって母の若い頃の話になってしまう。これは一体「いつ」の話なのか? ――レイ・デイヴィスは冒頭でそのことを明らかにしている。近所で発生したある残酷な強盗殺人事件に言及した後、彼は言う、今や自分自身が銃撃の犠牲者としてニューオーリンズの救急病院の病棟に横たわっており、そのために来し方を思い起こす時間ができてしまったのだと。エピローグではレイ・デイヴィスは怪我から回復して帰国するところ、女王陛下からCBEを授与され、長いことかかりきりになっていたアルバムを完成させるためにロンドンへ戻るところである。つまり、作中の時間は、レイ・デイヴィスがニューオーリンズで強盗に足を撃たれた2004年1月初頭からの(このドラマチックな出来事は歴史的事実である)一、二ヶ月間にすぎないのであり、その大半はモルヒネを打たれてうつらうつらしているレイ・デイヴィスの回想なのだ。意識が混濁しているのだから、回想が少しばかり前後しても仕方ないではないか。
実際、回想の中の時間は二手にわかれて絡まりあう。一方はせいぜいここ数年のスパンで、アルバムの準備をしているのだが一向にはかどらず、人間関係も難しいところにさしかかってニューオーリンズでいかにどん詰まっているかが生活の細部とともに思い起こされる。もう一方はより伝記的回想とでも言うべきもので、父母のなれそめの頃から自身の子供時代、デビューからバンドの各時代が直線的に回顧されるもので、直近の生活で行き詰まったりする場面に差し掛かると、レイ・デイヴィスの意識はこちらに飛んでしまうらしいのである。さらに彼はシンガーソングライターであるから、既発表のも未発表のも含めておびただしい自作の詩が引用されるし、文章のちょっとした言い回しの中にあの歌詞この歌詞を溶かし込んでいる節さえ感じられる。加えて彼は大の映画好きであるから、たとえとして映画の一場面がさらりと引かれるし、場合によっては一章分の場面をまるまる、ある映画作品と二重写しにして展開したりもする。その上、彼は古典や同時代の他の芸術動向にも通じているから、過去の自作は21世紀の人間となった一筋縄ではいかぬレイ・デイヴィス老の目を通じて解釈される。例えば、非公認自伝『Xレイ』では自身の個人的体験と結びつけられて語られていたカルト的大作(と言ってもいいだろう)「プリザヴェイション」2部作は、自国の政治状況を全く評価できない2004年のレイ・デイヴィスにとっては政治的諷刺であり、ブレヒト劇を参照して理解されるべき芸術的達成とされる……
勿論、2004年の夢うつつのレイ・デイヴィスの回想や解釈のある部分は、我々読者にとって眉唾であったりするだろう。とはいえ、本書の中の言葉が2004年の夢うつつのレイ・デイヴィスの意識の流れとして提示されていることは事実である。そしてレイ・デイヴィスは音楽家なので、そこに音楽的な構造を持ち込まずにはいない。
音楽が自分にとっていかに重要であるか、それが自分にとって外界とのほとんど唯一のコミュニケーションの手段であるから、ということを本書においてレイ・デイヴィスは繰り返し述べる。彼は他人を識別するのに、その人物から感じられる音楽をもってする。創造力が好調の時、彼は自分の中に絶えず湧き出すリズムを感じている(スランプになると、それが聞こえなくなるのである)。そしてその音楽の波は人生の山谷とある程度は重なるとは言え、全く帯同している訳ではないのだ。イギリスとアメリカという二項の対立から始まって、本書はさまざまな二項対立を変奏してゆくが、次第に創作上のスランプと思うにまかせぬ人間関係がクローズアップされてゆく。銃撃される直前には二項対立が崩壊するくらい日常生活は混沌をきわめ、ある日、ニューオーリンズの路上で、レイ・デイヴィスは彼にとっての音楽の天使とも言うべき友人の後ろ姿を見失う。それから彼は娘の暮らすアイルランドに行き、人気のない崖の道で運転をあやまってあやうく転落しかかるのだが、ずり落ちかかってあたふたしている最中に再び自分の中にリズムを取り戻す。その後、ニューオーリンズに戻ったレイ・デイヴィスはつきあっていた女友達ととうとう別れ、さらには強盗に撃たれて死にかけることになるが、彼の中のリズムは、時に心臓の音となりながら、もう彼から去ることはない。この音楽の波は耳を澄まさなければ聞き取れない微妙なものだが、本書の構造上のクライマックスはこの波とともにある。やがて、昼と夜、過去と現在といった二項対立が再び現れはじめ、冒頭を覆っていたアルバム「Phobia」的悪夢が世界に垂れ込める中、白黒映画の西部劇がもう一度思い起こされ、とりあえず希望らしきものをつかんで(彼の音楽の天使である友人は、出立するレイ・デイヴィスを見送るために思いがけなく空港に現れる)、物語は終わる。
多層の読み筋、多彩な言葉、多様な文体は互いを照射しながら本書をかたちづくる。例えばギターが派手なリフを披露したり、トランペットが突然吹き流されたり、キーボードが変幻自在に雰囲気を作り、背後でリズム隊が着実にリズムを刻んでいたりするように。とすればこれは言葉によって作られた音楽であり、来年にはアルバムを出すよと言った苗場のレイ・デイヴィスは、あながち法螺を吹いていた訳でもなかったのかもしれない。彼の他の作品と同様、本書もまた、愛すべきスルメである。