「DAHUFA:守護者と謎の豆人間」

中国映画史上初のPG13(中国にはレーティング制度が無いので自主規制)のバイオレンス・アクションとの触れ込みの「DAHUFA:守護者と謎の豆人間(大护法)」を見て来た。実は7月下旬の公開初日にも一回見ている。感染の拡大局面に都心の繁華街を歩くことに一抹の懸念を覚えつつも、対策には万全を尽くした、この時間に映画を見るか地元の混雑した商店街に買い出しに行くかは価値判断の問題だと自分を納得させて。自己責任と言うなら、その判断こそは自己責任の最たるものだ。ましてや一度なら(だが、価値判断において、頻度がなぜ問題になるのか?)。この間にワクチン接種を済ませて、二回目を見た。

実際、COVID-19 の第五波と重ならなければ、もっと劇場に通っただろうし、人にも大っぴらに勧めただろう。一方で、日々空気を読んで集団の中に埋没するも、体にキノコのようなものが生えてくる「疫病」に侵されると容赦なく処刑される豆人間達の姿は、偶然にも、まさに今の日本に生きる我々の状況とも重なりあい、今だからこそ、万難排して劇場で見るべきと声を大にして主張したくもある。いや、無理はしないでください、くれぐれもご安全に、我々の健康と医療をはじめとする社会的リソースをこれ以上消耗させないために、…と続けて早口で言わざるを得ないのだが(言わざるを得ない? 言わざるを得ない…)。なので、いつか機会があったら絶対に見逃さないでください、…しかしそれまで映画館は?
「自己責任でお願いします」?

 

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王宮から出奔した太子を連れ戻すため、国の守護者で武術の達人ダフファーは山奥に分け入る。やたらと堅固に構築された城壁の先には、人に似て人に非ざる豆人間達の暮らす村があった。そこは、黒い落花生が空に浮かび、昼でも灯される灯油の悪臭に満ち、処刑と密告が日常茶飯事な、恐怖に支配された場所だ。ダフファーは太子の身を案じるが、当の本人は、人間と豆人間の少年を取り巻きにして、山の嶺を女体に見立てた山水画を描いているところだった。最初は絶対に帰らないと言い張っていた太子だが、宮女を描いてもよいという皇帝の言葉をダフファーが伝えると、ころりと前言を翻し、帰国に同意する。帰途についた二人だが…

 

勿論、あっさり帰りつくことができないので、凄腕のガンマン、謎の暗殺者、豆人間の執行人等入り乱れての西部劇ばりの追跡劇が繰り広げられることになる。

 


豆人間の存在は(邦題のサブタイトルにもあるように)謎だ。しかし、豆人間達の謎は、作中においてはもっともあからさまな謎、つまり、解き明かされるために置かれた秘密、物語を次の段階に進めるための仕掛けである。豆人間の村に「神」として君臨する人間にとっては家畜に等しいものである彼らは、言葉を得て覚醒し、革命を起こす。ただし物語の回路は単純なものではない。家畜として生かされる豆人間達のディストピアは精緻に描かれた村の周囲の生態系と密接な関わりを持つし、革命後も豆人間による豆人間の処刑は止まらない、というように。
(ひょっとするとそこには痛烈な絶望と諦念と風刺があるのかもしれない)

 


豆人間とは何ものか、という問いは当然に、ダフファーとは何ものか、人間とは何ものか、という問いをも導き出す。赤いダルマ小僧ことダフファーや彼の好敵手である黒づくめの暗殺者が何ものかは結局謎のままだ。だが、それは残されたままでも誰も困らない謎だ。社会は彼らの腕を買っているのであり、彼らが誰であるかを気にしてはいないのだから。気にするとすれば、それは本人だけだ。だからダフファーは絶えず声に出して自問自答する。そうしなければ話が進まない、というわけでは全くないのに。
(そしてそのことは勿論、登場人物達の間に横たわるアンバランスを暗示する)

 


では人間達とは何ものなのか。

 

作中に登場する人間達は、全て権力を持つ者だ。彼らは、偽りの目と口をつけ、外からは区別がつかない豆人間達と異なり、それぞれの顔と立場を持つ。だから、彼らの関係は複雑だ。しかし、からくりが明かされてしまえば、そこには謎は無い。ただ冷え冷えとした現実が横たわっているだけ。

 


豆人間の村に君臨するのは、代々神仙を自称する欧陽一族であり、現在の当主は吉安を名乗る老人だ。欧陽一族にとって、ある目的のために豆人間達を「飼う」のは家業であり、自分の代で廃れさせるのは先祖に顔向けできないことである。吉安にとって豆人間は利益を生むブタだが、手間ひまのかかる厄介な家畜でもあり、必ずしもコントロールしきれない凄腕の暗殺者といった面倒をもたらす存在でもある。とはいえ、豆人間の村という閉じた世界において、吉安老人が絶対権力者であることは明らかだ。

 


マオマオという人間がいる。彼はあたかもギャグキャラのように登場する。包丁捌きの名人になる理想を持っていて、それを実現するためにはいかなる努力も惜しまない。自分に仕事を与え、理想の実現のために力を貸してくれる吉安老人に心酔し、忠誠を誓っている。彼にとって世界は単純で、謎など無い。吉安老人マジ感謝、俺は日々修行をガンバ、豆人間ただのブタ、何故なら奴ら喋れないから、吉安様そう言ったから、死んだ家畜の死体を廃物利用ナイスアイデア、俺は包丁捌きの練習、それで吉安様商品収集、上手くいく一石二鳥…
豆人間が喋れることを知った時、マオマオは吐く。
喋る豆人間を自分の手で殺した後で、マオマオはもう一度吐く。吉安は悪態をつくが、私たち観客は一体どうすればよいというのか。

 


さて、欧陽一族は代々、家業として豆人間を飼い、きわめて価値の高い産物を生み出して来た。ところで産物は秘蔵していては価値を生まない。それは取引されてはじめて価値を持つ。ならば、豆人間の村は、これまでも外部から閉ざされた場所では無かったはずだ。外の世界の要請が、村を生んだのだとしたら。

 

村の外には何があるのか。
例えば、太子が出奔して来た王国がある。

 


太子は、皇帝になりたくない、自由に絵を描いて生きたい、それが認められないから出奔したのだと主張する。彼の来歴について、彼がこれまで何を見て来たのかを作品は詳らかにしない。だが会話の断片から観客は窺い知ることができる。太子が命を狙われ、暗殺者が返り討ちにあうのは「いつものこと」であること。ダフファーが救出に来る前に、太子は一度豆人間達に捕らえられていたらしいこと。豆人間達の手足がバラバラになるのを目撃したことがあること。小姜以外の豆人間に好感情を持っていないこと。村を出る時期について、誰かと何らかの約束を交わしていたらしいこと。それにも関わらず、ダフファーと再会し条件が折り合った瞬間、即座に帰国しようとしたこと。彼が権力の中枢で、あるいはそこから遠く離れた山奥の村で見たこと、見たけれども認めなかったこと、認めようとしなかったが否定できなかったことは何なのか。

 

小鳴、実は吉安の孫でもある、太子に付き従う聡明そうな顔立ちの少年は、太子の足元に跪いて忠誠を誓う。マオマオが吉安に対してしたように。ただし小鳴は言う、「あなたに必要なのは腹心です」権力と暴力の機序を、豆人間栽培の秘密を、その軍事利用を、その他のことどもを全て心得た腹心が。
太子は吐きそうな顔をする。だが、彼は吐けない。私の方が吐きそうだ。どこに逃げ場所がある? 太子は小鳴の言葉を否定できなかったし、権力と暴力を嫌い、友情にあつい太子が、絶望の中で満身創痍のダフファーに権力者として命じた言葉が、呪詛のような「杀了他(彼を殺せ)」だとしたら。

 


さてこれは何についての、誰についての映画なのか。私たちは、私は、一体何なのか。例えば、自分の行動の結果が自分だけで負いきれるものではない世界で、自己責任の名の下に、もにゃもにゃと自己正当化を図りつつ、映画を見に行ったり行かなかったりするこの私は?
この作品においては、「バイオレンス描写凄いのに、よく中国の検閲を通ったね」と言う雑な感想では掬い落としてしまう諸々を掬いとって味わうための器を、受け手は自ら作り出さなければならない。それは作品の欠陥ではなく、作品の主題と構造からの要請だ。何故なら、一見閉ざされたディストピアと見える豆人間の村は、実は外の世界と密接に繋がっていたのだから。

 

その時、受け手が作り出す器は、様々なかたちを取り得るだろうし、その様々なかたちを私は見てみたい。

 


語り残された謎もある。女たちの胸のうち、覚醒した豆人間たちのその後、母なる落花生の脱皮の意味。それらは続編が作られるならば、そこで明かされることになるのだろう。

 


小姜について書くことができなかった。彼はこの作品の精髄であり、祈りだ。だから、彼については映画そのものを見てください。

 

>大护法概念曲「不说话」(周深)

 

>公式サイト

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