「ファンタジーの美しさ」についての数千字(その2)

その2:映画「トールキン」(ドメ・カルコスキ監督、2019年)

(承前)

coalbiters.hatenadiary.org

 

 ということで、ドメ・カルコスキ監督の映画「トールキン」(2019年)について。けれどもその前に、トールキンの「指輪物語」について、簡単に言及しておきたい。


 ファンタジーを「虚構」と「現実」との間の適切な距離を設定するロジックとして定義する場合の、「指輪物語」が採用している手続き上のロジックについては前回触れた。要約するなら、写本の校訂を踏まえた作品の刊行、という学術分野での手順を枠とし、かつ原本は失われているとの言及を置くことで、書かれていることの虚構性と読者(現実)との関係をコントロールしているといったところ。
 ところで、私が言わなくても常識の範囲だと思うが、そもそもトールキンは自身が発明した人工言語に「歴史」的背景を与えるために「指輪物語」を含む神話世界を創造しているのであり、邦訳普及版単行本全7巻のうち1分冊を占める追補編も含め、「書かれていること」が、相当厳密に模倣された(作者本人は模倣ではなく、普通に研究しているつもりだったと思うが)学術的体裁の枠組みのレベルと比較してどうなのか、というのが問題になってくる。で、この点に関しては、出版された校訂本としての作りは20世紀前半の英国で専門教育を受けた研究者の著作としては妥当なものだと思うし、神話・伝説の語り直しとしても、19世紀末に生まれた英国人男性によるものとしては、特段の違和感なく読んだ(エオウィンの扱いとか、言いたいことはあるが)。
 なお、言語学的な部分については私は無知なので然るべき方々に語っていただきたいが、個人的に言及しておきたいのは、「指輪物語」は多分、英語・英文学の歴史という観点での「行きて帰りし物語」になっているのじゃないかという点だ。ホビット庄や旅の最初のあたりでは現在でも使われることわざやマザーグースが引用されているが、最終的には古英詩まで行き着く。少なくとも私自身が確認できた限りでは、「二つの塔」の上巻、エドラスを目前にしてアラゴルンが口ずさむローハンの古詩(「あの馬と乗手とは、何処へいった?…」)は、実在する古英詩のトールキンによる語り直しである。作中のそのような細部は、校訂本という枠組みを採用した作者の意図ともマッチしているし、総体として「指輪物語」はそのような観点において、きわめて美しい作品であると私は思っている。



 ただし、この作品が20世紀末もしくは21世紀になって書かれたものだとしたら、私は「…はあ?」と言ったかもしれないし、ひょっとするとボロクソにけなしていた可能性もないとは言えない。いやだって、学問的な動向も社会状況も全く違うでしょ。それで、こういう話を書く?(もちろん書いたっていい。成功すれば)というか、「自作言語にバックグラウンドを与える」という全くもって一般的ではない創作動機を抜いた場合、「指輪物語」が一見していかに「時代遅れ」かというのは、すでにル=グウィンも冗談まじりに言及しているところであって。
 ということで、ようやく、ドメ・カルコスキ監督の「トールキン」についてなのだが、その前にもう一つだけ。実を言うと、私は「指輪物語」について原作原理主義者なので、ピーター・ジャクソンによる映画作品は未見です。原作原理主義者だから、自分が小説版を読んだ時のイメージを守り抜きたいのだが、悲しいことに映像の力は強く、見ればどうしても影響を受けてしまう。なので、見ないことにしたのです。本来であれば映画版「LOTR」の存在を前提とすべきところ、以下の文章では存在しないことになっていますがそういうことです。ごめんなさい。


www.foxmovies-jp.com


 ドメ・カルコスキの「トールキン」は、トールキンの青年時代を扱った一般的な意味での伝記映画ではなくて、「「指輪物語」をはじめとするトールキンの諸作品のバックグラウンドにどのような作者の人生経験があったか?」を逆算して再構成した場合にあり得るものとしてのトールキンの青年時代、を描いた映画である、と、まずは断言しておく。そういう点では、一人のイラストレーターの伝記映画の体裁を取りながら、同性愛に対する個人の意識の変化、社会の拒絶と受容、ゲイ・カルチャーの興隆を数十年のスパンで点描した、同監督の前作「トム・オブ・フィンランド」と類似のアプローチの作品でもある。また、生きるために必要な芸術の力をストレートに称揚するのも、「トム・オブ・フィンランド」と共通している。


 さて、一般的な伝記映画として見た場合、「トールキン」の筋立ては相当に紋切り型に寄せてある。早くに両親を失い、孤児となったミドルクラス(あまり上の方ではない)出身の(言語限定)天才少年。明らかに階層が上な級友達とのお定まりの疎外と反発と友情。仲間たちとの、芸術によって世界を変えたいという望み。同じく孤児の女性との恋愛。後見人である神父との衝突。学業継続を巡るあれこれの困難。失恋と友情と師事。自分の目指す道の発見。戦争。死。そして…以上。もちろんそれらは概ねのところはトールキンの伝記的事実から取られているが、細部の枝葉の刈込みとあまりにもキラキラ美しい映像とが「本当の」とか「真実の」的な生々しさを消し去っているし、何ならあちこちかなり以上の脚色がほどこされていて、遺族非公認だ。


 では一体これは何なのか、と言ったら、先刻書いたとおり、「指輪物語」をはじめとするトールキンの諸作品を補助線としたトールキンの前半生の再解釈だ。矢印を逆にしてはいけない。作家の人生の経験を作品解釈に投影しているのではない。トールキン的マストアイテム——ホビット庄ベレンとルシアン、旅の仲間、モルドール等々——で作家の人生の出来事を解釈しているのである。しかも、ご丁寧にも、トールキン自身が1966年版「指輪物語」序文において否定しなかった作品への影響——「1914年の戦争に遭遇した経験」「1918年までには、わたしの親しい友人たちは一人を残してみんな死んでしまった」等々——をほぼ全面的に採用し、全ては、ソンムでかかった塹壕熱にうかされ意識不明のトールキンが見たと思ったもの、というエクスキューズをつけて。だからこれは、トールキンの伝記作品ではなくて、作家トールキンを素材にしたファンタジー作品なのだ。遺族が伝記として公認しないのは当然だし、それは遺族の側にとっても作品の側にとっても正当な評価と言えるだろう。


 とはいえ、人工言語が先にあり、そのバックグラウンドとして膨大な神話作品群を生んだトールキンに関して、トールキンの作品群を所与のものとして、そのバックグラウンドとしての作家の前半生を想定する、そしてそこに最大の要素として第一次世界大戦をぶち込む(ことによって間接的に「指輪物語」を再解釈する)というこの映画のアプローチは、結論だけ見れば常識的と言えなくもないが、「トールキン」に関するファンタジー、つまり「虚構」と「現実」との間の適切な距離を設定するロジックとして捉えるならば、きわめて的確な批評性を備えていると思う。
 その上で、トールキン自身が自分の作品中に様々な古い物語の語り直しを滑り込ませたように、この映画もまた、トールキンが影響を受けたであろう物語を作品の要として効果的に用いている。例えば母が子供たちに語ったシグルドの竜退治の話は、オペラハウスでのエディスとのデートの「ニーベルングの指環」に繋がり、愛する者を自身の無力により失うことを恐れるトールキンの心情を際立たせる。あるいは、泥酔して自作言語でクダを巻いていたことをきっかけに師事することになった教授とともに座って詩を朗唱している最中、「War!」という叫びとともに第一次世界大戦の開戦が告げられる場面。これは言語の才能に加え、現代語訳の文体(文学的才能)をも師に認められた瞬間、戦争という現実が未来を断ち切る、というこの映画の実質的なクライマックスだが、ここでトールキンが読んでいるのはモルドンの戦いに関する詩だ。西暦991年、モルドンの太守ビュルフトヌスが侵攻してきたヴァイキングと戦って敗死した事件を歌う古英詩は、ソンヌの泥濘にまみれて死んでゆく青年たちの予兆として、いかにもふさわしい(なお、付け加えるなら、後年トールキンはこの作品の続編を創作している)。



 映画「トールキン」は、このようにトールキン自身の創作上の手法を踏まえて作家トールキンの青年期を描いた点で、ファンタジーとしてスマートなロジックを備えた作品だと、私は思う。その上で、この映画が現実の暴虐に抗して芸術の力を称揚していること、について付け加えておきたい。


 トールキンは「妖精物語について」において、妖精物語の機能として、回復、逃避と慰め、喜びをあげており、特に「逃避」に関しては、主に批評においてネガティブなニュアンスを帯びる点について縷々反論を加えている。おそらく彼が「逃避」の語で言わんとしていることは、良心的兵役拒否に類したことなのではないかと思うが、トールキン現代社会嫌悪とあいまって、この部分にはいささかの混乱があるように思われる。例えば彼は、大量生産方式で作られた電気の街灯に作中で言及しないのは逃避かもしれないが、文明の利器として過渡的なものだから無視してかまわないといったようなことを言うが、さすがにそれは乱暴だろう。そして、それらの間にちりばめられた「我々はケンタウロスや竜に出会うべきなのである」「ブレッチェリィ駅の屋根の方が、雲よりも「現実的」であるのだ、と自分を納得させることはできない」といったキャッチーな断言は、この現実の諸問題に背を向け、空想の楽しみに引きこもる無責任なファンタジー愛好家のイメージを生み出しても、おかしくはない。
 実際のところ、逃避と慰め(「幸福な結末(ハッピーエンディング)の慰め」)は、敬虔なカトリック教徒でもあったトールキンの結論においては、福音と結びつく。おそらく「妖精物語について」は、ファンタジーについての普遍的なマニフェストというより、キリスト教の信仰を持ち、20世紀の世界から脱走したいと願い、かつ、言語を生んでその言語を存在せしめるための世界を創る営為に身を捧げた一人の人物の信仰箇条なのだろう。


 映画「トールキン」において幾度も幾度も波のように繰り返される芸術の力の称揚は、「妖精物語について」における現実と妖精物語の機能との相克を、よりドラマチックかつシンプルに描いたものと言える。映画の中のトールキンは電灯の醜さについて文句を言ったりはしない。しかし、映画は、環境汚染されたディストピアSFの一場面のような世紀転換期のバーミンガム、貧困と病苦、階級社会の理不尽さ、抑圧された女性(とともに家父長制の下で男性であることの圧力に苦しむ少年たち)、戦場の無残さを画面に映し出す。映し出すだけだが、受け手は確かにそれらを見ることができる。それらの現実の暴力に直面する仲間たちの間で、あるいは彼らに関わる人々の間で繰り返し疑念を示され、確認される芸術の力。そして、映画のラスト、一枚の白紙の上にペン先が置かれる時、(受け手が当然に予想する)あの一文があらわれる瞬間は、まさにトールキンが言うところの「幸福な結末の慰め」の具現化に違いない。


 ドメ・カルコスキ監督は、「かつて僕がトールキンの物語によって現実逃避することができたのと同じように、2019年のいまも、本作によって人々は現実逃避することができるかもしれない」と述べている(映画パンフレットより)。確かに映画「トールキン」は「妖精物語について」が夢見たような妖精物語なのであり、トールキンの作品の「忠実な映像化」などよりもよほどすぐれた「トールキン」映画であって、ファンタジーとしての美しさを備えた良作だと私は思う。



(続く)(続くとしても来週以降…)