2016夏マルメ・スコーネ・麦畑ぼんやり行(3)

なぜマルメなのか:次に個人的動機。


 横というか、斜め後ろから撮ったために今いち貫禄のないマルメ中央駅。背後に見える建物は、今回泊まったサボイ・ホテル。駅からは運河を渡ってすぐなので、五分もかからない。外食が苦手なので、旅先ではどこで何を食べるかを考えるのが一番のストレスなのだが、マルメ中央駅にはセブン・イレブンがあるという事前情報を仕入れていたので安心していた。実際には、駅の中にコンビニもスーパーもフードコートもパン屋もあり、ファストフード店各種、スタバも完備なので、食事に横着な向きには実に楽ちんな環境だった。結果、ホテルの美味しい朝食と駅ナカご飯に栄養を頼る怠惰な生活に。ちなみに、アジアの東側方面の料理としては、タイ料理とSUSHIは独立したジャンルとして成立しているようだが、あとはアジア料理の中のバリエーションとして存在している印象を受けた。閑話休題

不況、ウォーターフロント開発、都市再生

 無事にマルメに着き、ホテルの部屋で一休みしてもなお明るいので、少し周辺を散歩することにした。初日は曇天で肌寒く、歩いている最中ににわか雨にやられた。傘をさす人はおらず、近くの軒先に避難してしばらく様子を見ている。かなり強い雨脚だったが、5分ほど降って止んでしまった。
 夏休みの天気の悪い日曜日の夕方だったからか、駅前の運河沿いの人通りはまばらだ。人が少ないかわりに、カモメは沢山いて、鳴き声が街の上に響きわたる。周辺の建物は概ね現代的だが、その横に百年くらいは経っていそうな煉瓦造の建物が残っていたりもする。運河沿いには遊歩道やウッドデッキが整備されていて、小綺麗だ。芝生、ハーブの植え込み、抽象的なモニュメント…

 船のスクリューのモニュメントとはさすが元造船の盛んな都市、とはいえ微妙に金比羅さんの奉納品めいているが、と近づいてみたら、日本のナカシマプロペラがマルメにある世界海事大学に寄贈したものとの銘板があった。やはり日本のセンスだったか。
 それはともかく、小洒落た遊歩道、小洒落た植え込み、小洒落たモニュメントの既視感は何だろう。没個性極まりないが、歩く分には安心快適であるし、多少のオサレ感もある。ああこれはお台場だ、と気がついて、旅行前のばたばたで失念しかけていた、マルメに行きたくなった別の理由をようやく思い出した。かれこれ十年近く取り組んでいるけれどもどうにも書きあぐねている小説の舞台となる都市のモデルに、マルメが当てはまるのではないかと考えていたのだった。具体的には、

  • 一定規模以上の大都市であること(人間関係が「知り合いの知り合い」で完結しない)
  • 港湾都市またはかつて水運が重要な位置を占めた都市であること
  • かつては工業都市として繁栄したが、産業構造の転換に際して相当苦しんだこと
  • 文化や知識産業と絡めたウォーターフロントの再開発を行うことで再生したこと
  • その結果として、ジェントリフィケーションが進展しつつあること
  • いろんなルーツの人々が暮らしていること
  • 北欧の都市であること

 最後の条件は私の趣味だ。この条件を付けなければ、東京の東側だってある程度は該当する。つまりは世界的な現象なのであり、それを北欧の歴史的社会的諸条件に置いた時、どのようなバリエーションとなっているのかを確認してみたかったのだ。少なくとも、水辺の遊歩道については東京と大差ないことは確認できた。

運河にかかる橋について

 マルメはかつては要塞だった前史があり、その痕跡はマルメ城だけでなく、旧市街の四方を区切る運河にも残っている。今では運河には何本もの橋が架かっていて、その欄干には作られた年代の記された銘板が取り付けられていることに気づいたので、陸地側の長辺を順にチェックしてみた。

  • Paulibron:1961年

  • Amralsbron:1937年(何故か黄金のサッカーボールが)

  • Kaptensbron:2013年

  • Davidshallsbron:1938年

  • Morescobron:2011年

  • Fersensbro:1914年

 こうして見ると、1914年をはじまりに、大体20-25年ごとに橋を架けているとおぼしい。景気のいい時期に少しずつ都市改造したのだろうか。街並みを見る限り、街区は同じ時代の様式で統一されているというより、どの街区もそれぞれに様々な数時代の建物のセットを取り揃えているような塩梅であり、含まれる時代・様式の量と幅とがその街区を特徴づけている。運河ボートツアーの流暢な2か国語を操るお姉さんも、「新旧の調和がこの街のいいところ」と力説していたので、乳歯の入れ替わりのような景観は、この都市のアイデンティティとして認識されているらしい。
 ところで、一番古い「1914年」という年は、第一次世界大戦の始まりの年であるより先に、マルメにおいてはバルト博覧会が開催された年である。1914年の5月から10月にかけて、マルメのPildammsparken(一世紀後に警察が野良イノシシを追いかけたという、あの公園)を主会場に、バルト海に面する5か国(スウェーデンデンマーク、ドイツ、帝政ロシア、ロシアの大公国としてのフィンランド)の芸術文化産業等を展示する博覧会が開催された。スウェーデンアーカイブに当時の映像が残っている。当時のマルメはすでに人口十万を擁する大都会だったが、博覧会の機会に大幅にリノベーションしたらしい。マルメ中央駅の前(つまり、運河の海側の長辺)にかかる橋も、確か「1914年」と書かれていた。なお、会期中にドイツとロシアが交戦状態に入ったため、展示されたロシアの絵画はスウェーデンに留め置かれ、戦後帝政ロシアがなくなってしまったので、そのままマルメの美術館に保管されたらしい。百年後の2014年に博覧会を記念した展覧会が開かれたようだ。さらになお、ボートツアーのガイド(承前)によれば、マルメの運河に架かる橋は第二次世界大戦や冷戦期、敵の潜水艦の侵入を防ぐための防衛線の役割を果たし、そのためにご覧のとおり、下面にはこうしてフックが取り付けてあるのです、ということだった。確かに、一面びっしり、サッカーボールでも掛けられそうな小さなフックが打ち込んである。冗談みたいに大真面目に。


(続く)