はぐるま、渋谷のスクランブル交差点と和解する。

職場で新聞記事をチェックしていると、金曜日の夕刊は各紙が週末公開の映画の特集をしているので、同じ映画の同じ場面が何度も出て来る。さすがに五月蠅くなって監督の名前を見たら、ファティ・アキンだった。数年前、花嫁を抱えるやさぐれた中年男の横顔をポスターに見つけて、邦題の恥かしさにもめげず、見に行ってしまった監督だ。その作品はトルコ系ドイツ人のどん詰まり感を描いてベルリン国際映画祭金熊賞を受賞したそうだけれども、映画を見つけなかった当時の私は、ガンガンの音楽とセックスとドラッグとアルコールとゴミと血と暴力の洪水に恐れをなしてすっかりご無沙汰していた。しかし、ファティ・アキン監督作品ならば、くだんの「愛より強く」のやさぐれ中年男ことビロル・ユーネルが出演している可能性がある訳ですよーー(さっそくぐぐる間)ーーほらお見込みの通り、ということで、公開初日、土曜日の朝一番の回で見る羽目に。
渋谷は朝でも人が沢山いて、大画面の映像はめまぐるしく入れ替わり、「……たいぼうのせかんどあるばむはつばい! ゆめのじゃぱんつあーいんよこはまありーなつーでいず!ちけっとなうおんせーっ!」などとどこの言語じゃな絶叫が通行人に容赦なく降りかかり、途中から案内板が消えてしまうのでスペイン坂が見つからずのオソロシイ異界であったが、無事直前に席に滑り込む。
……あ、これ、怖くないよ(まあチンピラに殴られたり、ご機嫌な乱交パーティがあったり、腰痛の主人公が悲鳴上げたりはするけど)。
怖いどころか、冒頭からご機嫌な音楽がとっかえひっかえのご機嫌な映画だった。半月前くらいに見たので、実のところ場面の順番をほとんど覚えていないのだが、多分、これ、ご機嫌な音楽をご機嫌に繋げていくDJ映画にその本質があるのであって、場面はそこにいかにノリよく乗っかるかが全てなのじゃないかな。映画終了後、一目散にタワレコに走ってサントラをゲットしたことは言うまでもない。じゃんじゃん踊ってまっせ。
もっとも、宣伝では音楽と食事!しかないおバカ映画みたいな印象だったけれど、コメディながら状況はシビアでリアル。ギリシャ系の主人公がハンブルクの運河沿いのボロ建物でしけたレストランをやっていて、彼女と遠距離になったとか彼女に振られたとかはまあどうでもいいとして、固定資産税を滞納して差し押さえられかけたり、兄貴は刑務所入っているのが勤め先があれば昼間は外出できるってんで弟に雇用証明書かせるし、悪い不動産屋になった同級生は虎視眈々と土地を狙うし、何より主人公ジノスは冒頭ギックリ腰になってしまうので、全編屁っぴり腰でアイタタ言っている。レストランの一大事に自分では動けず、人を雇わなければならないのだ。ああ人件費が。しかもせっかく雇った天才シェフ(笑っちゃうほどかっこいいビロル・ユーネル)は理想が高くて「俺の味が判らん奴は出て行け」となけなしの常連を追い出してしまう。ああ顧客サービスが。ところが閑古鳥鳴くレストランで暇を持て余したバイトがバンドを始めたら、仲間が押しかけてきて、料理出したら大人気で……ってな感じでさらに紆余曲折あるのだが、個人的には、ものの本で読む創造都市ってこういうことなのかと大いに腑に落ちた。都市が再開発されていく中、その隙間にゲリラ的に集まっては散る若者たち、倉庫を不法占拠して暮らす芸術家の卵たち、再開発の波が及べばひとたまりもないボロレストラン、その場所に居続けるというのは、ものすごい戦いを必要とすることなのだろうな、と。作中、登記を変更する場面が出て来るし、競売もある。「ソウル・キッチン」自体はおとぎ話みたいな幸運で上手くいくけれども、多分、現実にはおとぎ話はない訳で、私たちが再開発される世界の中で今ここを謳歌するのは、ほんとうにはかない、偶然の奇跡なのだ、一年後、あるいは明日には私たちの縁も遊び場も、戦いもむなしくすっかりなくなっているのかもしれないなあ(だって再開発でこの場所=たまり場さえ無くなってしまうかもしれないのだから)、などと意識の後ろで感慨に浸りつつ、しかしそれでもご機嫌な映画なのだよ。いいじゃん、渋谷が人混みで五月蠅くても、と思ったほどに。