はぐるま、「戦争と平和」を読む。
早速、人間状態から滑り落ちる。頭蓋の中で円盤がうつろな音をたてて高速回転しているのが判る。別名、空回り。周囲から「たいへんですねー」と言われまくっているのに本人はそうとも感じず、何だかふわふわしているっていうのは、ある意味かなりやばいんじゃないかと、ふと冷静になって思った。一方でヒッキーの気がつのって、朝、家を出るたびにぴいぴいしてるし。今年は休養の年なんだから、少し自重しよう。
と言った口の先から妄想力に助けを求めるのは間違っているような気もするが。
まずは映画を見た。
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ということでうっとりしながら、閃く白煙や、どんどん落ちて来る弾丸や、ゴミのように吹っ飛ばされる人々を見ていた。一方で東夷の私には理解しがたい文明的な人間関係を悠長に描くパートというのも、超大作にふさわしくえんえんと続くのだった。さらに時々、場面とまったく関係のなさそうな、形而上的なモノローグまで流れるのだった。その高尚さたるや、どう考えても映画の内部に必然性があるとは到底思えぬ唐突ぶりなので、おそらく原作から流れて来たのに違いなかった。かくして、原作に対する好奇心がむくむくと湧いて来たのだった。曰く、
- 映画のアンドレイはむやみと陰気でカッコいい(「むやみと」は後ろの両者にかかる)が、19世紀の野郎の作家が「むやみと陰気でカッコいい男」なんて20世紀的腐れ属性で大貴族の青年を描写するとは到底思えないので、映画監督は20世紀的萌えツボを観客に提示することによって何ごとかを隠蔽しているに違いない。
- 映画のピエールはどんくさく、小心で、逆切れしやすく、面の皮が厚い、まるでもてない自分を認めるのが嫌さに非モテオタクを自称する昨今の隠れマッチョみたいな人物だが、19世紀の野郎の作家が(以下略)。
- 時々さしはさまれるモノローグは多分、「ほら、あの「戦争と平和」の映画化ですよ」というアリバイのために存在しているのだが、では原作においては作品の一部としてどの程度説得力を持っているのだろうか。
- ナターシャのただごとならぬ馬鹿女ぶりは、見本がどこかにあるとでも言うのでない限り、監督の精神状態を疑いたくなるが、原作では一体どういうことになっておるのか。
続く。現在岩波新訳3巻を読み終わったところで、映画を軽く凌駕するナターシャのおつむの具合にいささかうんざりして来た。残り3巻で少しは持ち直すのだろーか。というか、ナターシャだけではないのだが。ううう。