ただの日記。

服が無い。
いや、さすがに服はあるのだが、仕事に着て行く春ものの服が無いので、買わなければならない。としばらく鬱々としていた。仕事に着て行って許してもらえそうな類の服がそもそも嫌いな上に、そういう服を売っている売り場というのは、三歩歩けば「いらっしゃいませええ」の声が襲いかかる、ヒッキーの私にとっては拷問以外の何ものでもない試練の場だ。しかし、仕事場の気温はすでに28度を記録して一刻の猶予もならない。なので、タンスの中に春ものが無いことを確かめるためにアイロンをかけることにして、そのための人参として「ウォッチメン」のDVDを借りて来た。
原作の方の「ウォッチメン」は先週、過労に打ちのめされた状況で布団の中で9時間だか10時間だかかけて読んで、おかげで今週は28度の室温に茹で上がって意識が飛ぶたびに、ニューヨークに出現したラフレシア大魔王とかその犠牲者の方々とかがカラーリングもそのままに無意識の領域をハックしやがるので、私の脳ミソはすっかり80年代に戻ってしまったのである。気づくとテレビは戦争やらテロやらのことを映していて、その背後にはいつでもアメリカかソ連がうごめいており、従って核戦争の恐怖がどんよりした天を常に覆い(実は晴れてたかもしれないが、我が家のテレビの色彩は鮮明ではなかった)、しかして冷戦は第二次世界大戦の戦後処理にも密接に関わる事態であることから、当時の悲惨や残虐についてのエピソードも自動的に呼び出され、夜、夢を見ればやたらとどこかの戦場で、見えない敵を殺したり、味方が殺されたり、逃げ回ったり、逃げ切れなかったり、全ての上に核ミサイルが降って来たり――な終末幻想にどっぷり漬かっていた日々。世の中にも私の日常生活にも、楽しく幸せなことはいくらでもあった筈だけれども、記憶として定着するのは「生きて21世紀を見ることはない」という強迫観念だった訳ですよ、子供であった当時においてさえ。まあ、私は今も昔も人一倍信じやすい人間だが、そうだとしてもとんでもない時代だ。
ヨーロッパの歴史について書かれたものを読んでいると、西暦千年の前にも、当時の人々は、さんざん世界の終わりに怯えていたらしいのだが、あと千年くらいすると、未来の歴史家が、ミレニアムの終わりのたびに出現する特異な精神状況の証拠として、原作の「ウォッチメン」を引用するかもしれない。ひょっとすると80年代の我々は、冷戦にかこつけて新たなミレニアムが始まる前の黙示録的心性を楽しんでいたのかもしれない。だって、アメリカとソ連が世界を何回だか滅ぼせるだけの核兵器を所有しており、国際情勢が所々で緊迫していたとしても、核戦争による世界の滅亡までには沢山の現実的交渉と選択の余地が広がっている。そこを一足飛びにスルーしてしまうのは、あまりにも論理の飛躍だ。
だから、全面核戦争を幻視していた時、私は(我々とは言わないよ)世界についてやおっていた訳である。まる。恣意的な単純化による読み筋のすりかえ、というのはやおいのよくするところであり、その大半は悪癖だが、しかしたまには故意に重心を移すことで見えて来るものもあり、原作の「ウォッチメン」はそうやって見えて来たものを、精密に、一つの作品に組み立て上げたのである、と言うことができる。一方、映画版の「ウォッチメン」においては、冷戦も核戦争の恐怖も、それによって世界を読み替えてしまえるほどの切実さを持ち得ていない――作り手にとっても、受け手にとっても。だからなんだよ、多分。映画版において登場人物たちが微妙にやおい臭いのは。(文章の筋道と関係ないので中略。具体例については、各自、適当に補足してください)匂わないロールシャッハ、貧相な小男でないコバックスというのはとどのつまり、普通にヒーローだ。しかし、そもそもこの物語は、「普通にヒーローなヒーロー」の沼のどぶさらいから出て来たのじゃなかったっけ? 要するに、冷戦末期の終末論的強迫観念は、やおってやおって元に戻さないと話の枠組みとして通用しないほど、歴史の一コマになり果てたという訳だ。嗚呼。
とか感慨にひたっているうちに午後も遅くなったので、春ものを探しに出掛けたのだが、かような精神状況で店員の「いらっしゃいませええ」攻撃に耐え得る筈もなく、本屋で数冊買ったきり、手ぶらで戻って来る。しかし、今や私は存在する筈のなかった21世紀に生きているのだから、「世界の滅亡の前に、どんな服を着るかは問題じゃない」とか、ずぼらの言い訳をすることはできないのだ。文明社会のコードを守るという行為は、コスチュームを着た自警団のそれと同じじゃないか、多少は、と毒づきながら、来週には覚悟を決めて、何か買わなくちゃいけない。
――てな心性をネタに何か書けないだろうか。いつの間にかゼロ年代まで終わってしまったからにして。