萌えとやおいとその他のことども。

標記の件につき、頭の整理をしたいなあと漠然と思っていたところ、萌えとやおいについて言及した文章を読み、そこでの言葉の使い方が今ひとつ腑に落ちなかったので、この機会に頭の体操をしてみることにした。と言うことで、以下、コールバイターズ的「萌え」と「やおい」の定義集。念のためお断りしておくと、世間一般で認識されている用法とは多分大きくズレている。なので、てっとり早く世間一般の用法を知りたい向きはwikipediaなど参照されるとよろしいでありましょう。
とは言え、言葉というのは世間一般の用法が先にあって、個々人や個別場面における活用事例がそれに準じるのではなく、「世間一般の用法」と各人が認識する用法にある程度は規定されながらも、個別具体的な使用例の積み重ねによって運用されていくものであり、その過程で生じた適用範囲の拡大・縮小や用法の変容が「世間一般の用法」と各人に認識されるものに影響を与え、その内容を変えてゆくものだとコールバイターズは認識している。つまり、一般論の定義を洗練させるより、個別の使われ方を検討することに意味がある。
そもそも、ある言葉の使われ方に違和感を感じつつそれを黙認することは、その言葉の射程距離にあるさまざまなことどもに関する闘争の場から尻尾を巻いて退散するに等しい。言葉をめぐる闘争は、世界をどのように認識し、表現するかの戦いなのだから、そこから降りることは、相手が自分に都合のいいルールで世の中を仕切ることに同意することと同義である。で、経験的には、ルールが敷かれちゃった後でいかに騒ごうと屁の河童扱いされるのがおちだ。ということで、手遅れになる前にコールバイターズ的「萌え」と「やおい」の用法を分析して自分の立ち位置を確認し、あわせて諸賢の参考に供したいと考えるものである。まる。テーマとしては、

コールバイターズ的には「萌え」と「やおい」はどう違うのか。

を設定し、方法論としては、過去の日記にあらわれる「萌え」と「やおい」の用例を読み解きつつ、これらの言葉に対するコールバイターズの関心のあり方を検証する。さて。ああ、しみじみ馬鹿だ。

Beam Us Home!における「やおい」の用法。

本日までに、当ダイアリーに書かれた文章のうち、「やおい」の語を含むのは、以下のとおり。

  1. プリンスにそんなことさせていいのか、ヤンキーよ。全く、やおいの欠片もありゃしない。映画だからって、必ずしもごろごろする訳じゃなかったのか。(2009.6.29)
  2. エイゼンシュテインの絵って、どうしてこうもやおい汁にあふれているのだろう。(2009.5.10
  3. ただし、亀山氏の著作は一般的にかなりやおい度が高く、特に後者は大分小説的な手法を取り入れているので、歴史研究的な視点からは多少眉につばつけて読んだ方がいいと思う。(同)
  4. 例えばドストエフスキーの作品は私にとってはやおい度数が高いものとして認識されています。(同)

めったやたらとロシア比率が高いな。1のプリンスは若かりし日のセブルス君ではなく、「戦争と平和」のアンドレイ公爵のこと。ボンダルチュクの映画と比較してアメリカ版はやおい的でないと言っている。逆に言うと、マキノ嬢はソ連版の方はやおいくさいと思ったわけだ。
2。やおい「汁」って何だよ。おそらく脳内に何かが分泌されるのでありましょう。エイゼンシュテインの映画の一場面を見て湧き出した脳内分泌物質に操られ、本を衝動買いしてしまったと言い訳している。世間一般の「萌え」の用法の一つ位とかぶる使い方だと思うが、マキノ嬢は区別しているらしい。
3。固有名詞失礼。「ドストエフスキー 父殺しの文学」(NHKブックス)を読んだ時は、自らの研究者生命を断つも厭わぬ捨て身のパフォーマンスに感嘆したものの、しかし研究者はやおい的読解を公言してはいけないと思う。
4は今更言うまでもなく。「カラマーゾフの兄弟」ではイヴァンがキリストと大審問官という、今となってはベタすぎるやおい話を得々と披露した揚句、アリョーシャに(世間一般のやおい者がそうであるように)「あなたの言ってることわけわかりませんけど?」と突き放されて終わるオマケつき。

Beam Us Home!における「萌え」の用法。

引き続き、新しい順に「萌え」を含む文章を抜き出してみると。

  1. 勿論、アラン・スネイプの手の動きが、とか、表情が、とかいう方面に萌えて突っ走るというのはアリだと思うが、それはコールバイターズの方法論じゃない。(2009.8.8
  2. 映画のアンドレイはむやみと陰気でカッコいい(「むやみと」は後ろの両者にかかる)が、19世紀の野郎の作家が「むやみと陰気でカッコいい男」なんて20世紀的腐れ属性で大貴族の青年を描写するとは到底思えないので、映画監督は20世紀的萌えツボを観客に提示することによって何ごとかを隠蔽しているに違いない。(2009.6.19
  3. 箱根に萌える。(2009.4.11
  4. ええ。草木が萌えはじめていましたよ。(同)
  5. というか、鉄ちゃん臭ふんぷんたるこのページに萌え心を刺激されたのだ。(同)

1の用例は、対象がアラン・リックマンでありその役柄がスネイプ先生であるのを黙殺すれば、韓流ドラマにはまるおばさま方とか、酔っぱらって誰かれなしにアイドルの写真を押し付けては「○○ちゃんかわいいでしょう!」と絶叫する大学生のお兄さんとかにも共通する、一般的なみーはー心を指しているのではないかと思うが、あるいはそうではないかもしれない。
2はマキノ嬢がやおいくさいと思ったボンダルチュクの映画の登場人物についての記述。「萌えツボ」という表現により、ある種のパターン化の存在が暗示されるとともに、「萌えツボ」は何かを隠蔽するものとして解釈されることにより、やおい回路の出現を担保するものとして認識される。
3は複数の意味を掛けている。
4はごく伝統的な用例。
5の「萌え心」の対象は、箱根登山鉄道の技術的側面について説明したホームページの内容のみならず、そのホームページを媒介として「鉄ちゃん」一般、さらには小鉄ちゃんであった時代の自分自身に対するノスタルジックな感傷をも含むものと考えられる。
と、つらつら書き連ねてきた中にも、

  • ボンダルチュクの「戦争と平和」はマキノ嬢に「やおい」的なものと認識される一方、登場人物の一人はある種のパターン(萌えツボ)に則って描かれることによって原作の造形から変容させられていると推測されている。
  • ある映画に出演する俳優の演技や仕草は「萌える」と表現され、監督の名前を冠した映画の一場面は「やおい」とされている。

等、「萌え」と「やおい」が近接する場所にありつつ、しかしマキノ嬢的にはどうやらかなり厳密に区別されている概念であることをうかがわせる用例が見出される訳ですが、そうするうちに当ダイアリーの記念すべき最初の日記が萌え連発のしょーもない内容だったことが判明したので、次回はそれを他人事のように分析しながら、「萌え」と「やおい」について、引き続き整理してゆく予定。