死者に祈る。

coalbiters2009-08-15

祈りなさい、主よ。/私たちはまぢかにいます。ーーパウル・ツェラン

終戦の日。あるいは、こちらにいらっしゃっていた死者をあちらにお送りするとされる日。
今住んでいる街は東京大空襲で焼けた、というのは知っていた。私の祖母はこの地域の小学校の先生をしていて、空襲当時、自分の生徒たちとともに疎開していた筈である。疎開先の人々が大層親切にしてくれて将棋も教えてくれ(天童市だった)、後に一同お礼の訪問をしたという話をよく聞いた。引っ越して来たばかりのころ、図書館の郷土史の棚を見ると疎開の記録が残っていて、教員として祖母の名もあり、疎開先についても詳述してあった。最初の疎開先で赤痢だかが発生したために、親切にしてくれた疎開先に移ったのだという事情はそれではじめて知った。図書館を出て、再開発されてきれいに整備された川のほとりを歩いていると橋のたもとに鎮魂の碑があり、大空襲の日、この川で三千人が亡くなったと書いてあった。対岸の区では河川整備を機に立派な碑を建てた、私たちも犠牲者を語り継ぐためにここに鎮魂の碑を建て、毎年8月15日に灯籠流しを行いますとあった。
その文面に死者たちの記憶を失うまいという執念を感じた。
とはいえ、歳月と都市開発によって記憶は否応もなく蹂躙されていく。両国の江戸東京博物館の前には、橋の上で雑踏する避難民が炎に巻かれて亡くなった旨の説明とともに、言問橋の昔の欄干が野外展示されているが、あまりさりげなく置かれているので犬に小便でもひっかけられかねない。整備された川の周辺は再開発地区で、首都圏一円に広告を打った鳴り物入りの高層マンションが続々育っている。マンションを売り出す業者は、すぐ目の下の川で六十年前に一晩に三千人が死んだという話はしないだろうし、マンションを購入する人は、駅前のガードで同じ夜、逃げ場を失った人たちが上まで積み重なって亡くなったということも知らないだろう。多少は地縁のある私も知らなかった。地元の昔話の採録を読んでいたら、片づけに従事した元兵士が話していたのだ。遺体は、関東大震災後、延焼防止目的の空き地として計画された公園に運び、埋めたそうである。「今思うと大変だなあと思うけれど、その時は何も感じないんだよね」と淡々と話す口調がおそろしかった。家族の歴史では、幸せな現在に結びつかないことどもは故意に語り落とされる。
なので、8月15日に休みが取れる今年は実家のお盆は遠慮して、地元の灯籠流しに行くことにした。郷に入れば土地神さまに、どうか地面の上で死ぬことを(雲の中の墓とかじゃなく!)許してくださいとお願いする欲深い身であれば、むしろ、地面の上で死ぬことができなかった死者たちに許しを乞うべきであろうと思ったのだ。
ネットで検索した区役所の情報は、何と時刻が書かれていない役立たずなものだったのだが、出掛けてみて理由は判明した。地区の総力を傾ける行事(しかも川を挟んだ両岸の地区対抗)だから、参加者は言われなくてもいつ、何をやるのか知っているのである。地元町会のみならず、地元の警察署長、消防署長、学校長は出席必須、当然区長も地元選出の議員も顔を出す。町会役員らしき警備担当者たちは灯籠流しの列に並んだ顔見知りに声をかけ、不平不満をてきぱきとさばいてゆく。「道をあけてください、来賓が通るから」列はぶーたれる。「どうせ選挙目当てなんだから、奴らなんか最後にすりゃいいのに」ビールを飲みながら、一家の長老の空襲体験に耳を傾ける。私の後ろに並んだ一家の「おばあちゃん」は、空襲の時、子供を背中にくくりつけ、ご先祖の位牌とやかんを手に逃げて助かったそうである。○○のあたりは被害がひどかった。あそこにいたら死んでいた、と言う。区長も似たような経験を話していた。空襲の時、私は一歳で、母は私を背負ってーー○○のあたりに住んでいたのですが、あそこでも川に入った人たちは沢山死にました。生き延びた人々の話はどれも似通っている。我々と彼らの対比。建ったばかりの高層ビルには老人ホームが入っていて、お年寄りたちが窓から見させていただきますと言ってくれたと主催者が紹介する。確かに窓辺に人影が見える。居住棟のベランダにも人がいる。「新しい人たちは、この人たち何をやっているんだと思うだろうね」と灯籠流しの列に並ぶ人々はささやきあう。今日の記事は明日の地域版に出るだろうという予想がなされる。それからまた、戦争の話に戻る。後ろの一家によれば、テレビで駅前のガードの話も出たのだそうである。今でもコンクリートに人の形が残っているのだとか。「あそこは昔は真っ暗でいつも走って通った」と年輩の女性が言う。「今では道路も出来て明るくなったけれど」灯籠が流れ始める。ゼロメートル地帯のこととて、灯籠は海からの風で上流に向かって流れていく。上流の、ちょうど鉄道のガードのほうへ。「今年は風がいいから、固まらずに綺麗に流れる」とあちこちで話している。「花火は川向こうの方が高そうだったが、灯籠の数はこちらのほうが多い」とも。流し終えて橋の上から眺めると、美しく流れる灯籠に混じって、浸水して火の消えた紙の船が幾つも、しらじらとただよっていく。その晩には、多分これらの灯籠の数ほどの人々がこの川で亡くなり、その日の川は多分、今日のように気持ちよくさわやかではなかった。祈りは宛先を持たない一方通行のものにすぎないが、私たちは(私たちであるために)祈るしかない。