はぐるま、「戦争と平和」を読む(3)

まあ、その、つまり、トルストイの「戦争と平和」である。そろそろ本題。
何しろ過去に糞つまらん認定したトルストイであるから、読み通せれば御の字と思っていたのだが、これが案に相違してたいそう面白く味わいぶかいのであった。いや、嫌味じゃなく。いい拾い物をしたと喜んでほいほい進んでいくうちにだんだん雲行きがあやしくなり、最後は脱力の底なし沼に落ちて終わったのは前述のとおりだが。ということで、面白くも脱力するマキノ的とっかかりは以下のとおり。

  • そのひらぺったさについて
  • 過不足なく細やかであることについて
  • とは言え、アンドレイは馬に蹴られて死んでしまう、非常に可哀想な役回りであることについて
  • それがそうなるのは、そうなる筈だからであることについて
  • 御大の意味不明な歴史談義の位置づけについて

さて。

ほぐした麺のように世界を見るということ。

その昔、マキノ氏(だか嬢だか判らんが)がある作品に対して糞つまらん認定を行ったのは、当該作品が、彼(又は彼女)の関心の引くことを語らず、彼(又は彼女)にとってどうでもよかったり、どうしてそれにこだわるのか判らなかったり、あるいはこだわられるとこちらが不愉快になるようなものごとばかりにかかずらっているように思われたからである。多分。しかし、「自分にとってどうでもいいことを語る文章は糞つまらん」と言うのは、言うまでもなく思考の短絡であって、「自分にとってどうでもいいことを語る文章だからこそ面白い」という見解だって勿論成立する訳である。従って若き日のマキノ氏(だか嬢だか)は自身の視野狭窄のために道を踏み外したのだが、当時の彼(又は彼女又は性別未分化のホモ・サピエンス)が「おまえは女なのだから結婚して子供を産んで一人前なのだよ」「そのためにおまえは色気を振りまいて夫となる男をゲットしなければならないのだよ。色気を振りまくことを嫌がるのは罪なことだよ」「しかし女は結婚したら奴隷のように夫に仕えなければならないのだよ」というどこのロシア?(失礼)みたいな貞女教育に息が詰まりそうになっていたことを考えるならば、19世紀のロシアの貴族と恋愛を扱った作品に自分に対するあてこすりを感じ取って怒り狂ったとしても、やむを得ぬことであったろうーーと他人事のように同情しておこう。閑話休題
という訳で、ひとたび我が身の利害を離れるならば、自分にとってどうでもいいものごとを語ってくれる文章は、自分一人ではたどりつきようのない視野を与えてくれるので、大層重宝するものなのである。かくして「ああ、えぐえぐ」と呻きながら貴族たちの洗練されたドラミングの場面を読み進め、彼らの生態と世界認識に思いを馳せるうち、そもそも作者のものの見方が自分とは全く異なることに気づいて衝撃を受ける。すなわち、
ーーひらぺったい
ある社会を描こうする時、描き方はいろいろあると思う。たとえばその内側のある個人を視点とするやり方。その個人は単数でも複数でも構わないが、この場合、彼(ら)が接する部分から社会は描かれるので、その断片的、部分的なものの提示の集積が社会の一面を示すことになる。社会を仮に袋に入れて売られている焼きそばの塊のようなものだと考えるなら、この描き方は包丁で真ん中あたりからざっくり切った切り口みたいなものだ。
あるいは、塊を塊として示す、というのもありかもしれない。ボンダルチュクの映画は、映画が一つの場面で複数の筋書きを同時に進行させられるメディアだからかもしれないが、ものごとの塊性ーー特段の解釈や説明なしにごろっとそのまま転がしている感じーーが強く感じられて、そこが戦争の場面などのかっこよさというか、「すげーなこれ」感につながっていたのではないかと思う(大分記憶が減退してきたので自信なげ)。まあ、原作を読んでから思い返すと、映画はかなり忠実に、かつ観客が原作読んでいることを多分前提にして十分な説明なく場面をつなげていくので、だからこそ一層塊っぽさが強まり、何というかその、妄想力の格好の標的にもなりうる、ある種の深度を獲得したのかもしれないが。続く。