雨と踊る。

○午前中は昨日、ノルディック・トゥリーの会場で買い込んで来たJPPのCDを聴きながら、本日返却期限の本のコピーを取る。大正十年発行なので禁帯出だろうと思いつつ駄目もとで予約したら貸出されてしまったのだ。蔵書印を見ると赤いハンコで「禁帯出」と押してあるにもかかわらず。利用者としては便利な限りだが、かつて持ち出し禁止だったものがその後持ち出し可能になる合理的な理由が判らないので、バーコード登録時のミスではないかと思う。で、返却時にそう指摘したのだけれども、「システムに禁帯出登録されてないし、背表紙に禁止シールがないから大丈夫ですよ」とか今いちピントのずれた答えが返ってきたばかりであった。窓口に「奉仕係」とか気味の悪いネーミングつけている暇があったら、図書の管理をもうちっと注意ぶかくやってくれないかな、KT区。こないだ借りたエンデの全集にも月報が逆向きに綴じ込んであって読めないのがあったし。それはともかく、大正十年の本の序文に先日見つけた明治期の別の史料の著者の消息が書かれていたのは収穫だった。鉄道局の書記だったのか、手塚さん。

○JPPの曲を聴きつつ踊りながらつらつら考えていたのだが(コピーしてたんじゃないのか)、昨日ノルディック・トゥリーのティッモ・アラコティッラのハーモニウムを「脇をしめる」と表現したのは正確ではなかった。ハーモニウムはドローン的な部分も担っているけれど、単に脇でどろどろ鳴っているだけではなくて、さんざんひっぱった後でふっと転調して、降りてくるフィドルの旋律を迎えたり、裏で別の方向から曲の筋道をつけている。そういう音の動きの自在さ、共鳴の豊かさ、という面ではノルディック・トゥリーは確かにヴェーセンと似ている。で、そういう音楽って、共感覚の認識のあり方とよく似ている、と思ったのだった。おもてだけではなくて裏で鳴っている感じ、一見無関係っぽいけれど要所要所でこちらに戻ってきて交わる感じが。例えばインテリジェントだったり疾走感にあふれていたりするトラッド・バンドは沢山あると思うが、その裏に空間がある音楽は滅多にない。で、私はその裏っかわの手触りが好きなのだとあらためて感じた次第。これは音楽だけではなくて、絵の色づかいなどにも言えることだけれど。しかし、その「裏っかわ」なるものが客観的に(手続きを踏めば誰でも判るものとして)存在しているのかどうかは、よく判らない。

○夕方は篠つく雨の中を清澄庭園へ。池のほとりの涼亭で風流に食事をした。料理は手作りのもそうでないのも、ボリュームがあって美味しかった。ルネサンスリュートの実物を持って来た方がいたので、ちょっとだけ触らせてもらった。羽根のように軽い。肘から弾くのだそうだ。で、ギターとは弾き方が違うのだそうだ。真似してみたが全然駄目だった。中世もののファンタジーで詩人たちにほいほい弾かせていたのがいかにいい加減であったか判明して、非常に反省した。その他にはついすたーとか言う、身体能力の限界に挑むゲームを見物した。あまりに高尚すぎて、私の乏しい画力ではとうてい間に合いそうになかった。