ハリー・ポッターの国籍問題(続き)

ファンタジーの境界について

つまり、B氏がファンタジーを「押入にこもって見る夢」とか何とか定義するのは、それはそれで構わないのだ。ファンタジー=逃避、というのはファンタジーの側に立つ者にとっても、ファンタジーの反対側に立つ者にとっても、判りやすい錦の御旗になってしまっているところがある。とりあえずそう言っておけばこじれない、みたいな。そうでなくて本心からの自分の考えです、ということなら、それはそれで尊重すべきものだし。
しかし、B氏が個別具体的な「ハリー・ポッターの国籍問題」をファンタジーの一般論でねじ伏せようとしたのは、議論の手続きとして正しくないし、それと同様に、逃避の文学においては現実の社会制度に関するリアリティをないがしろにしても問題ないと断言するのは、創作の作法として正しくない。と私は考える。
というのも、作者がファンタジーを逃避の文学と考えていたとしても、読者が無条件にそういう前提を持っているとは限らないからだ。つまり、作者は読者を納得させなければならない。読者が本当は「逃避としてのファンタジー」テーゼに鼻もひっかけない奴だったとしても見当違いの方向にさまよい出ないですむよう、ここからは逃避の文学の領土だと風呂敷を広げて、ファンタジーのナワバリを示してやらないといけない。その中では勿論、好き勝手に逃避なり何なりをしてしまって構わないし、現実の社会制度のリアリティなどゴミ箱に捨てておけばいい。けれども境界の柵、言わば不信の停止線においてはそうではないのじゃないか。少なくともその場所においては、必要であれば現実の社会制度がリアリティをもって描かれなければならない。なぜなら、そうすることではじめてファンタジーが機能するからだ。続く。