佐藤亜紀@明大講義[2009年度第1回]

マキノ的要約

明治大学での講義も三年目。学外者の私ごときも好き勝手に出席することができるのだから、明治大学商学部の太っ腹についてはきちんとここに明記しておきたいと思います。ハラショー。何でも学生は2つのゼミを掛け持ちする制度になったそうで、特別講座もその改革の一環で創設されたとか。人文系の講義ははじめてとのことだが、幅広い教養を身につけておくのは、世界にいろいろな補助線を引くために必要なことだから、若いうちにじゃんじゃんやっておいた方がいいよ。

で、三年目の講義、最初はこれまでのおさらい。9.11は保守主義者のアイン・ランドをも社会主義者エドマンド・ウィルソンをも等しく規定していたアメリカニズム(合理主義と自助努力とある種のヒロイズムのアマルガムみたいなもの?byマキノ)に衝撃を与え、特に映画においては、その影響が、例えばスピルバーグの「宇宙戦争」でトライポッドの襲撃にあって群衆から「顔」(表情とかその人をその人たらしめる個別性)が消える場面、あるいは「トゥモロー・ワールド」冒頭の、全くの予告なしに爆発する爆弾の場面などにあらわれている。近年の映画に見られる「顔」の剥奪はボスニア紛争や9.11の影響を反映しているが、それでは表現は今、どのような場所にあり、そこにはどのような表現が残されているのか、というのが今年のテーマとのこと。
ところで我々は作品の外に現れた部分しか持ち合わせておらず、それを手がかりにして視点をすえ、均整の取れたものとして把握する(=一番おいしく骨の髄までしゃぶりつくす方法を考える。byマキノ)必要がある。
ここでアウグストゥス時代のいかにも写実的な彫刻と、コンスタンティヌス帝のぬぼーっとしたスフィンクス然の顔を引き合いに出して、様式の問題が検討される。つまり、後者が前者に比してヘタクソなのではなく、表現したいものが違ったのである、と。それぞれの様式では注目すべきポイントが異なるが、それは作品として構成されている世界の見方が異なっているからだ。従って、世界そのものが変われば世界の切り取り方も変わってくるし、当然表現自体も変わる。
 世界の切り取り方が同時代の人間によってさえさまざまだという点に関しては「ハリー・ポッターの国籍問題」という私を釣っているとしか思えない(爆)命題が示され(後述)、とどのつまり様式は互いに並立するものであるが、しかし、今この瞬間の世界をとらえる、という観点からはそれが可能な様式は以前のものとは異なっている筈である。ということで、大野晋が信じ得ていた「見ること=言葉を発すること」が失効した今、イアン・マキューアンの「土曜日」のように、グラグラ煮えたぎったものの上の薄皮一枚を誠実に描くやり方ではなく、その向こうで書くことは可能なのか、という問いと、一方批評はそのような新しい様式に「こんなもの」と言わない覚悟が必要だという指摘で、以下次号。