2009秋ベルリン+@旅行記(16)

coalbiters2009-11-01

DAY7-2:ドイツ×歴史×博物館。

承前。ドイツ歴史博物館につかまっているところ。

外国人観光客的視点バージョン

かくして、展示は、ローマ時代の円柱にはじまり、デューラー描くところのカール大帝、騎士の文化、アウグスブルクの栄華、宗教改革――ルターとメランヒトン、農民戦争はひかえめに――、ルネサンス以降の学問の発展、30年戦争――はどうだったかな、気づくと絶対主義が全盛となり、ナポレオンが来て、啓蒙主義の時代はなしくずしに19世紀の栄光に流れ込み、産業が発展し、プロイセンも興隆し、ビスマルクが宰相としてドイツ皇帝の傍らに立っている、ということになる。そのまま世紀が変わって、第一次世界大戦の敗色濃厚に――といったあたりまでが2階の展示だったと思う。
1階はひたすら短い20世紀である。最初はハイパーインフレと社会の混乱、ワイマール文化を楽しむ間もあらばこそ、選挙ポスターは禍々しさを増し、ナチ党はうさん臭いスローガンを叫ぶし、共産党は紙の上でもナチスと取っ組み合いをやっており、その後は戦争に続くので、陰鬱きわまりない。しかも博物館内はどうした訳だか、やたらと底冷えするのだ。ハーケンクロイツをひけらかす大量のポスターに囲まれて、ガタガタ震えていた。おまけに、展示室にはほとんど人気がないのだが、ユダヤ人迫害のあたりを見ていると、係員らしい男性がやたらと巡回してくるのだ。というか、必要以上に近づいて来る。気味が悪くなってこちらが別の展示に移ると定位置に戻って行く。いや、これは私の被害妄想ではない筈だ。2階を見て回っている時には、どんな隅にもぐり込もうが、気にも留めなかったんだから。
展示室の中央あたりにあるのは、例えばナチ党や軍隊の制服だったり、動員のためのポスターだったり、ホロコーストに関する命令書の類だったり。頽廃芸術展は中2階、ユダヤ人への迫害はその下あたり。この辺になると見る方も疲れてくるので、大抵は部屋の中程を足早に通り過ぎるだけだ。強制収容所の敷地らしき模型は隅に追いやられていた。普通は見ない。アウシュビッツの模型もあって、それはまた別の隅だったが、その悪趣味、というか救いがたい鈍感ぶりを見ると、本心ではちっとも悪かったと思ってないだろ、と毒づかざるを得なかった――服を脱いでシャワーを浴びる筈が毒ガスが出て来て阿鼻叫喚、というミニチュアの石膏模型を、平然と展示している訳ですよ。あり得ない。その前からは、係員に早々に追い払われましたが。
ドイツが降伏し、「次はジャップだ」と凶悪な表情で因縁つけるアメリカの戦時国債のポスター、ヒロシマナガサキを経て第二次世界大戦は終わり。残りのスペースは東ドイツと西ドイツにきれいに二等分されていた。で、1980年代をカウントダウンで処理して、1989年から90年に至る。出口の前に、観葉植物の鉢植えみたいな案配で、当時のプラカードが一かたまりに寄せて展示してあった。中心には「das」と「ein」を併記したのが立っていた。いかに再統一的観点を強調する歴史博物館であっても、さすがに「das」を黙殺する訳にはいかなかったのだろう。しかし、これがダーントン教授が「壁の上の最後のダンス」の最終章で熱く語っていたプラカードのなれの果てかと考えると、「劣化」という単語が脳裏をよぎる。

ぼけてしまったが、パンフレットの最後は「WIR SIND EIN VOLK」で〆るのである、という証拠の写真。

博物館側の主張

――というふうに私はドイツ歴史博物館で感じたのだが、さすがに意地悪の度が過ぎるのではないかと思って、ネット上で異論反論を探してみた。ちょうどいい記事を見つけたので以下に紹介。

昨年の秋に、佐倉の国立歴史民俗博物館がドイツ歴史博物館の副館長を招いてシンポジウムを行ったらしい。副館長の講演はこのPDFファイルで読めます。
驚いたのは、ドイツ歴史博物館は1987年の創立で、現在の常設展は2006年にオープンした出来たてのホヤホヤであるということ。展示に関する基本方針を抜き書きしてみると、

  • 文化政策的に見れば、ドイツ人にとって自分たちがどのような国民であり、どこから来て、将来どの道を歩んで行くことができるかを体験できる場を提供することであった。(p1)
  • 常設展の基本計画は、過去からのオリジナルの資料によって、2000年にわたるドイツの歴史を年代順に見せることである。(p4)
  • ドイツの歴史を国際的な側面で示すという基本構想は徹底的に追及され、どちらかというと、ドイツ史の物語に映ったヨーロッパ史の展示と言った方がふさわしいほどである。(p4)
  • 20世紀のテーマは、ドイツ人に重荷となっているが、厳密な学術研究の成果と、印象深い証拠資料によって提示されている。展示は、以前によく見られたショック療法的方法や教訓的な道徳的観点を避けて、観客がこの時代を認識的に、かつ感情をもって学べるようになっている。従って、例えばホロコーストについては、以前の展示のような恐怖の部屋ではなくて、生き証人であるひとりのポーランド人が製作したアウシュビッツの芸術的な模型が中心になっている。その人の視点が観客に情報を与え、熟考を促し、ナチス・ドイツの殺人狂的な犯罪をより鮮明に示すのである。(p5)

ええ、私の意地悪視点もあながち的外れではなかったようで。私が悪趣味の極みと思ったものは、副館長によれば「生き証人が制作した芸術的な模型」らしいですけれど(ちなみに壁際を「中心」と言えるかという疑問もあるが)、そういう情報を読み取る間もあらばこそ、係員に威嚇されて逃げ出したのは先に書いたとおり。国際的アプローチに関しては――今時の標準装備というところで、自慢するほどではないと思う。

悪趣味ではあってもレベルは高い。

それでは、ドイツ歴史博物館の常設展はグダグダで見るに耐えないかというと、そうではないのが博物館展示の面白いところ。オリジナル資料を用い、国家の物語という19世紀的歴史観にのっとり、その方法論においては隙の無い厳密な展示を実現しているという点で、かなりレベルの高い展示だったことは確かだ。「人類共通の遺産」を標榜して恥じることを知らない大英博物館に「おまえが言うか」とうんざりしつつも、そこまで言うならその1館1ジャンルの道をとことんまで極めてくれよと思うように、ドイツ歴史博物館がこの保守反動路線を極めるなら、それはそれで面白い風景が見えるのではないかとも感じた。
勿論、現代の国家が「自分たちがどんな国民か」を体験する場を必要と考え、その場として事件史・政治史・戦争史中心の国立歴史博物館を選択する、という政治的風土についてはどうしたものかと思うし*1、日本でそのような試みが生じたら私は多分反対するだろう。しかし、そのような留保はつけるにしろ、現在のベルリンにおいては、これはアリだろう、というのが私の結論である。その理由は、

  • 博物館展示に対する多少のリテラシーをもって眺めれば、ドイツ歴史博物館の常設展の意図は明白であり、選択された方法論においてはレベルの高い展示を実現している。従って見学者は自分の視点からさまざまな批判が可能であり、その批判は博物館側の意図とあわせて、建設的議論の土台となりうる。
  • ベルリンにはさまざまな歴史観を持つ歴史系の博物館が複数存在する。また、路上の記念碑やパネル展示もそれぞれの立場を主張している。見学者はそれらをあわせて見ることによって、複数の歴史観の存在を知ることができ、それぞれの考え方の類似点と相違点その他の関係性について把握することができる。
つまり、ベルリンの路上では、歴史観という怪物たちが壮絶バトルを繰り広げている、と言えるのじゃないかな。

とはいえ――と、またここでひっくり返るのだが、軟弱に流れたユダヤ博物館とか、ベルリンにおけるイスラム教徒の起源を紹介することで、逆に現在のイスラム教徒の移民の問題を見えないことにしていると言えないこともないTHE STORY OF BERLINの展示、さらには今年は壁崩壊、来年はドイツ再統一20周年のはしゃぎぶりなどを見ていると、それら複数の歴史観が都合のいい一つの歴史観に収斂しかねない、と思うのも確か。つまり、

もっとも、ベルリンにおいて、当分、土地利用の需要が都市のキャパシティを越えるとは思われず、すると街のあちこちに放置された各時代の廃墟はしばらくそのままだろうから、全てが真っ白に塗りつぶされて捏造される、という可能性は薄いだろうと思う。ベルリンが「シュプレー川アテネ」であるのは、ペルガモンはじめ似非古典風建築物の数々のためではなく、古代都市の廃墟の上に現代の都市が発展してきてますが、空地を掘れば出土品がざくざく出て、歴史が変わりますよ、あなたも一つどうですか、という意味合いにおいてであるべきではなかろうか。

2009年9月27日の旅程。

  • 8:30/ベルリン東駅
  • 8:45/アレキサンダー広場駅
    • 赤の市庁舎、ニコライ教会、シュロス広場
  • 10:15/DDRミュージアム
  • 11:00/ドイツ歴史博物館(〜16:30)
  • 18:00/ベルリン東駅

旅行記本編はあと1、2回で完結です。

*1:しかも、博物館があれだけ国際的アプローチを主張するということは、元々の意図は相当に父なるドイツ、ゲルマン民族万々歳だったのだろうと邪推できる。