2013夏プラハ+ウィーン観光名所うすかわ編(10)

coalbiters2013-08-15

DAY3:丘の上のプラハ

城へ。

翌日はいよいよ登城である。旅行社の現地係員の人は、トラム等を活用した疲れにくい行き方を懇切丁寧に教えてくれたのだが、母のリクエストは昔の入城ルートで行きたい、ということなのだった。

まずは旧市街の道をぐるぐる。ヘビスキーなので、蛇の紋章はとりあえず撮る。よく晴れた朝で、空の青と建物の丸屋根と道路標識がきれいにハモっていた。

カレル橋の旧市街側からのぞむ朝のプラハ城。橋を渡り、まだ店が開いていない急な坂道を息を切らしながらのぼり、登りきったところでひとしきり景色を眺め、広場に入り、入場券を買い、また門をくぐると、

遠近法も感慨もへったくれもない至近距離に大聖堂がどん、と建っている。プラハ城の規模もこじんまりした人間サイズだ。

すでに大聖堂の外には入場の列が出来、観光客は改札機にチケットを通して一方通行の順路を押しつ押されつ一列になって進んでゆく。天井は高く、絵が多くの壁をおおい、装飾は金ぴかで、ステンドグラスを透かして来て赤や青や黄色を帯びた光がそれらにさしかかる。多すぎる色が干渉しあって必ずしも美しいとは言えないが、豪奢ではある。

大聖堂の外側。細部は金と壁画で飾られ、黒々と古めかしい屋根や塔の地肌と精妙なコントラストをなす。取りつけられているガーゴイルは肉眼ではよく見えないけれども、城のどこかに修復中だか調査中だかで取り外したものが展示されており、力んだり苦しんだりしながら大口を開けてひたすら何かを吐き出そうとする人や悪魔や動物の百態を、心ゆくまで鑑賞することができる。町なかでは大聖堂のガーゴイルの写真集まで売っていた(勿論購入したことは言うまでもない)。

チケットの番号に従って、旧王宮へ。美しい天井の大広間を抜けると崖の縁であって、上階の部屋では、「ここが王の使者が投げ落とされて三十年戦争の発端となった場所です」という説明書きの横の窓が開いており、よい眺めを堪能することができる。

プラハ城の歴史に関する展示(またしても地下)。

多分、旧王宮の続きの建物に、どことなく納屋の裏手のようなうらぶれた感じを漂わせながらも観光客を休憩に誘ってやまない半地下の庭があり、そこのベンチに座ると嫌でも目に入るのが、プラハ城の歴史に関する展示の入り口なのだった。文字通り、先史時代から近世までのプラハ城の歴史に関する出土品やらその他様々な古物を展示する地下展示室である。入るといきなり発掘された遺構を床下に見ることができる。順路の先にも、照明の極端に少ない暗い室内に、隣接する教会の地下部分の壁やら、何とかいう高僧ゆかりの地下室(自らこもっていたのか投獄されていたのか、メモを取らなかったので忘れてしまったが、とにかく灯明があげてあった)やらが待ち構えており、地下スキーが狂喜乱舞することは請け合いである。展示は、古い時代から順に、出土品等と発掘の結果明らかになった事実、つまりアカデミックな研究の成果を要を得て簡潔に説明・展示したもので、同様の様式の展示を遺跡系の世界遺産の傍らでよく目にするところから推測するに、世界遺産に設置を義務づけられたものなのかもしれない。
おそらく、プラハのあちこちにこっそり口を開けている地下の展示室は、世界遺産を抱えた都市として、多量の、それなりにちゃんとした説明をどこかに置いておかねばならなくなったという需要の増加によって開発されたのかもしれない。そのいきさつは、きっと以下のようなものであったのではないだろうか。

  • 世界遺産の構成要素周辺における歴史的説明の必要の増大。
  • プラハは人間サイズの街であり、従って小さく、観光資源の付属物のために供出すべき余剰の床は無い。
  • 観光資源は大事だが、人間が日の当たる地上で快適に暮らすことはもっと重要。
  • 人間が暮らすのに快適な場所を観光資源に割くことはできないが、人間が暮らすのに快適でない空間なら観光資源のために開発・活用することはやぶさかではない。
  • 洪水のたびに建物がかさ上げされたために(多分)地面の下に追いやられた昔の居室の存在を人々が思い出す。

ともあれ、プラハ城の歴史に関する展示には、暗すぎてほとんど黒く、地下室を利用したためにやたらと入り組んだ空間に、真珠母で作られて照明を受けて妖しげに輝く法衣であるとか、墓地の出土品(人骨つき)とか、ルドルフ2世の巨大な紋章をあしらったタペストリだとか、大砲とか、展示も地味に面白いのでおすすめである。惜しむらくは、見学者がとにかく少ないこと。観光名所じゃなかったのか。料金の範囲の筈だが、観光客たちは一体どこに行ったのだろう。

フラッチャニふらふら行。

勿論観光客は地上にいるので、トイレは長蛇の列だし、ワンルーム・マンションを横に延べたような黄金小路は原宿の裏通り(伝聞による)のようなありさまになっている。ひととおりの見所は見たので、トラムの停留所側から出てみることにした。

鬱蒼と木々の繁った深い谷を渡って城を眺めたところ。やはり、城と針葉樹の形態的類似性が何ともかっこいい。そのままトラム通りを左折して、大雑把にストラホフ修道院のあるだろう方向に進む。停留所に観光客が群れていたりして観光地めいた華やぎが感じられたのもつかの間、すぐに歩道の横には生いしげる雑草、トラックと自家用車が飛ばす郊外のバイパス道路の風情になってしまい、内心大いにびくつく。文明の香りを求めて道を曲がり、当てにならない案内板を無視して進むと、おそらくプラハに幾つもあるのであろうヤン・ネポムク教会の一つに行き会い、警備厳重な兵舎か何かの前を過ぎ、「歴史を感じさせる」と言えば聞こえがいいが車通りが意外とあるので結構危険な歩道のない石畳の裏通りなどを経て、目抜き通りらしきところに戻って来た。

(再び屋根の上に顔を出す大聖堂)
このあたりは賑やかではあるが、観光に貪欲なぎらついた雰囲気はなく、おっとりした風情であって、本来なら、何をするでもなく半日くらいふらふらするのが丁度いい感じだ。ちょっとフラッチャニを舐めてかかっていた(というか、そもそもあまり想定に入れていなかった)ようで、反省している。

写真左はチェルニーン宮殿。プラハの建物としては大柄にして大味である。写真右はその向かいのロレッタ教会。丘の上にいることが多かったこともあって、空と雲の美しさを堪能した一日だった。

丘の上の修道院の海の生きもの。


ということで、ストラホフ修道院にたどり着く。豪華な天井画のある大図書室が見所と聞いていたが、ーー確かに豪華な天井画であり、大層天井の高い部屋の壁一面に本が詰め込まれた空間は好ましくはあるものの、小綺麗にまとまっていて、ボルヘスの図書館的な無尽蔵な印象はない。むしろ特筆すべきは、その手前の回廊がそのまま「驚異の部屋」と化していて、工芸品や単に古いだけと思われる大砲の玉にとどまらず、あらゆる海の生き物、爬虫類の類が剥製にされて戸棚に吊るされていることである。鮫とか鰐もいましたな。ミハル・アイヴァスの「もうひとつの街」でこれらの生き物が大活躍するのは、あながち大法螺でもなかったのである。その他にも中世の写本なども展示されており、楽しく眺めていたら、おしゃべりに余念のなかった係のおばあさんが突如近寄って来て、「あなたヤポンスカよね、日本語の説明シートあるからご覧なさい、ほら」と押し付けてきた。もうほとんど見終わっていたけれども、折角なのでひととおり読み、ついでにカメラ代払うのを忘れて内部の写真を撮れなかったので、売店(中世写本は無造作にも売店と同じ部屋に展示されているのだ)で日本語版ガイドブックを買う。日本語訳もおかしからず、内容も結構充実していて、パソコンと向き合う白衣の修道士の写真などもあって、よい買い物だった。日本語による説明の充実は、せっせとプラハのあちこちに押し寄せた先人たちの行動力の賜物だと思うが、明らかに他の東アジア系観光客に押されている現状では、いつまで維持されるのだろうか。

ペトシーン公園への道はかなりの上り坂だったのであきらめて、マラー・ストラナに向かって下ってゆく。隣の通りは目抜き通りだというのに、この横溢する田舎の道感は何だろう。

振り向くと、こちらも田舎の名刹ないし名主の屋敷感満載な修道院の全景が。のどかである。
帰りは、途中でうっかり余計な階段を下りたら別な方角に出てしまったりもしたが(結果、前回も同じトラップに嵌まって道に迷ったことが判明した)、それでもかような発見があったりしたので、よしとする。セグウェイプラハでもウィーンでも大人気であった。続く。

2013年7月1日の旅程。
  • 0815/ホテル出発
    • 旧市街/カレル橋/マラー・ストラナ(ネルドヴァ通り)
  • 0930/プラハ
  • 1330/ストラホフ修道院
    • マラー・ストラナ/旧市街(ユダヤ人地区)
    • 土産購入など
  • 2000/コンサート(市民会館スメタナホール)
    • 旧市街/カレル橋
  • 2200/ホテル着