iの世界における魂の不滅について。

iPadをゲットして2年ばかり経つのだけれど、16Gの体に自炊したPDFなんかを山ほど詰め込んでいたら、近頃さすがに各種動作がとろくなって安定性も微妙な感じになってきた。父が以前からiPadには多大なる興味を示していて、新しいの買うなら古いのを貰うよと言っていたので、新しいiPadが発売されたのを機に、二号機を買うことにした。
ところで、私の職場には職場旅行という昭和時代の遺風が残っていて、4月に旧年度のメンバーうちそろって某温泉地に繰り出し、夜更けまで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをやるのである。
と書くうちに慧眼のみなさまはお判りかと思うのだが、旅行のハイライトはビンゴ大会であって、景品のiPadを当てた人が気前良く譲って下さったので(感涙)、今、私の手元には新しいiPadが鎮座している。

新しいiPadを手に入れたら、新しい方にこれまでのデータを移行しなければならない。初代の時は私のパソコンが古すぎて母艦にならず、あわててパソコンまで買い直した経緯があっただけにおっかなびっくりだったが、何と画面にあらわれる選択肢を選択していくだけで、母艦に繋ぐ必要さえなくデータ移行30分込みで1時間もかからずに作業は終わってしまった。驚異のITシロートフレンドリーぶり。新しい方の風呂の蓋を開ければ、元のと同じ壁紙、元のままのカレンダーやブックマーク、元のままのアプリが当然顔で並んでいる。確かに画面が細密になってネット利用時の速度が戻ってきたけど、機能の向上を除けば、新旧の違いは意識する必要もない。けれど、これって私にとっては世界の原理が転覆したくらいに恐ろしいことではないか、と突然気がついた。

私はずっと魂という概念は肉体と不可分のものだと考えていて、むしろ概念でさえなくて、諸々の感覚やら機能やらの関係性の成り立つ場の別名くらいに理解していた(確か、アリストテレスが「魂について」でそんな見解も紹介していた筈)。そのような考え方に立つと、人間はいつか必ず死ぬ以上、魂が不滅ということはあり得ない理屈になる。ただし、このように考えると、そのような個別の肉体に根ざした魂、さらに意識などに敷衍してもいいと思うけれども、というバラバラのもの同士でどうやってお互いにコミュニケーションを取れたり、普遍的な認識に達したりできるのだろうか、という疑問が生じる訳で、そこんところは正直よく判らないのだが、例えばピナ・バウシュの作品において、個々の肉体に根ざした自閉的な動きがふと、偶然のように他者とコミュニケートできているように見える瞬間を持つことあたりを補助線にすれば、そのうち何か見えてくることもあるのではなかろうかと、やや楽観的に考えている。
換言すれば私は帰納的で経験主義的で個別から普遍に向かう思考回路を持っている訳であり、iCloudのデータがまずあってそれを個別の機器に落としてくるクラウドを用いた移行作業というのは、普遍が先にあるという点で私にとっては異質な世界認識なのだ。だから、何だかエイリアンの知的世界を覗き見るような面白さがあったことは認める。しかし。

魂が肉体と不可分で滅ぶべきものだとする認識の帰結は、ものが捨てられず異様に物持ちが良くなることで(物を機能ではなく関係性の束として見ればそういうことにもなる。魂を人間の物理的・生物的側面と結びつければ、人間以外が魂を持ってはいかんという理屈も成り立ちにくいし)、初代のiPadもかなり機能低下していたにもかかわらず、さよならのつらさを思うにつけ、「ビンゴで外れたら買おう」と買い替えを先送りにしていた訳だったのに、全く面倒なこともなく移行作業が終了した後は、そりゃ確かに心情的には寂しさがあるけれども、使う時には新旧の違和感というのは実感的に全く存在しない。使い勝手において新旧の体の相違が存在しないのなら(使い勝手の向上はOSのバージョンアップでも起こりうることだから)、個々の機器、個別の体って何なのだろう。おそらく、あの移行作業は、「肉体は滅びるが魂は不滅」という言説が私の目の前で実体化した瞬間、だった。それは単に演繹的な思考回路を体感しました、というのとは違う。だって現に便利なんだもの。便利の体験は時に暴力的なまでに圧倒的だ。それは思考実験にとどまらず、現実を、現実の享受の仕方を変えてしまう。肉体(あるいはある道具)という制約の多い物理的存在から生まれる個別的な経験は、遠からず(今でもSNSのある部分ではすでにそうなっているような気もするが)、いつでもどこでも誰にも共有されるかたちに変換されない限り、個人にとってさえ従的なものにとどまるか、あるいはそもそも「存在しない」ものとされるのではないか。そのような世界において、人々の魂というのは、一体どのようなかたちをするものだろうか。

だから、ひょっとすると、電子書籍のことももう少し突っ込んで考える必要があるのかもしれない。私は便利かつ普遍的な(つまり、アプリとか機器とかに依存しない)電子書籍の大量出現を待ち望み、それまでは積極的に自炊に励む人間であるけれど、それは何故かと言えば、電子書籍ならば、蔵書として持っていたくはないけれども仕事の都合上その他の理由によりやむを得ず読んでおかなければならない情報を目に見えない場所に追いやることができるからなのだった。蔵書は物理的なモノである以上、そこにあれば必然的に魂の交わりが生じてしまう。しかし私としても魂の交わりをする相手を選びたい気持ちはある訳である。特に自宅においては。電子書籍が普及すれば(かつ物理的な本として情報を持つというオプションが引き続き確保されるならば)、私は私の関心の関係性に従って配架された本棚の前で心静かに自分自身の問題関心と先人たちのそれの蓄積との対話を楽しむことができるであろう。人文学の黄金時代再び。
――だが多分、私の昨日の体験から(やや飛躍的に)考えるならば、そのような理想郷は来ない。その世界では、人文科学はそれなりの活況を見せるのだろう。けれどもその世界に人文的知の存在する余地は多分あまりない。だから、出版界が電子書籍を警戒するのは一面では正しいかもしれない。ただし、紙の本に依存した収益モデルを破壊するとかいう既得権益墨守のレベルで済まさなければ、だ。でもさ、だからといって、何と言って反対できるだろう? 人文的知は守られるべきイデオロギー、スローガンとして絶叫されることは似合わない。というか、イデオロギーや錦の御旗になった人文的知はもはや人文的知ではない。そしてまた、人文科学の知見はそれとして有用だし、興味深いものに違いなく、現代の我々の世界に(人文的知にはなし得ない)なにがしかの貢献をすることもまた確かなのだ。