ネビル・シュート「渚にて」を中心とした問題系

ここしばらく、ネビル・シュートの「渚にて」を中心に据えて、論考めいた短文を書いていた。そこで扱った問題系への補助線となる文献を備忘としてあげておく。

ネビル・シュート渚にて」とその関連

渚にて―人類最後の日 (創元SF文庫)

渚にて―人類最後の日 (創元SF文庫)

日本語訳は数種類出ているようだが、使用したのは井上勇氏による創元SF文庫の旧訳版。よくも悪くも「いかにも昔の翻訳調」な訥々とした訳文が作品世界とマッチして味わいがある。
渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

新訳版はこちら。書店でぱらぱら見ただけだが、旧訳より訳文がとんがった印象を受けた。創元SF文庫版は新旧ともに原作にない「人類最後の日」という副題があったり、小松左京による核の恐怖に引き寄せる帯がついていたりして、特定の枠組みを示してくるのが玉に傷。
On the Beach (Vintage Classics)

On the Beach (Vintage Classics)

英語版。ちなみに電子書籍としても出ている。電子書籍だとある単語がどこに何回使われたかすぐにわかるので重宝した。映画にもなっている(未見)。
〈真理〉への勇気 現代作家たちの闘いの轟き

〈真理〉への勇気 現代作家たちの闘いの轟き

渚にて」について論じた文章はweb上にも幾つか(たくさん)あるのだけれど、「人類ラストの一年なのに、人々は淡々とおだやかに暮らす」→「美しい」or「実際に直面するとそうなってしまうのかもしれないなあ」or「かえって戦争(核)の恐ろしさを感じた」という構成の感想が大半。吉田健一を論じる枕として「渚にて」への言及がある丹生谷貴志「スカー・フェイスの眼光ー吉田健一に於ける詩と批評と非物質的なるもの」でも、「淡々と美しい」部分に着目している。

歴史と物語と継承について(1)

ヘロドトスとトゥキュディデス―歴史学の始まり (historia)

ヘロドトスとトゥキュディデス―歴史学の始まり (historia)

「トゥキュディデスは先輩ヘロドトスを批判してたのでは?」という問いから「いや、必ずしもそうとは言えない。むしろトゥキュディデスは先輩にオマージュを捧げていたのだ」という表向きのストーリーラインはやや取って付けたようながら、ランケに始まる近代の実証主義歴史学墨守しているだけではいけない現代の歴史学の問題意識において、ヘロドトスの叙述が見直されつつあること、トゥキュディデスの厳密な分析が厳密であるがゆえに語り落としている社会の一面があり得るという指摘は鋭い。
歴史 上 (岩波文庫 青 405-1) 歴史〈1〉 (西洋古典叢書) 古代ギリシアの女たち―アテナイの現実と夢 (中公文庫)(祝!文庫化)
アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

著作からうかがえるアリストテレスの頭脳の冴えと不機嫌な教師ぶりはそれだけでも興味ぶかいが、ここではアリストテレスの「詩学」とホラティウスの「詩論」という主張も体裁も異なる二つの論文が一冊にカップリングされている点に注目したい。ルネサンス期には、ラテン語ホラティウスの方が取り付きやすかったため、アリストテレスホラティウス的に解釈するという一大誤解が行われていたという。トゥールのグレゴリウスの「歴史十書」を題材とする。数年前に買ったきり積読のままだが、こちらの方にも補助線を延ばせないかしら、と思う。

歴史と物語と継承について(2)

追悼のしおり (世界の迷路?)

追悼のしおり (世界の迷路?)

残された記録・痕跡から、過去の一族の歴史に関して、厳密にどのような記述を導き出すか。特にオクターヴ・ピルメの著作から彼と弟レモとの交流を読み解く「万古不易の領域をめざす二人の旅人」の章の精緻・肉薄と、その他の章のやや大味な筆づかいとの差に注目。
死者の軍隊の将軍 (東欧の想像力)

死者の軍隊の将軍 (東欧の想像力)

カダレの小説は不思議で、アルバニアの公式見解万歳とも読める解釈の枠組みをあからさまに示しておきながら、何かもっと不穏なものをあらわにしている。それが何か、まだ掴めずにいるのだが。本作は戦時中の遺骨収集のためアルバニアを訪れたイタリアとおぼしき某国の将軍が体験する悪夢のような道行き。

歴史と記憶

戦争記憶論―忘却、変容そして継承

戦争記憶論―忘却、変容そして継承

戦争について何がどのように語られてきたか(あるいは語られなかったか)について。国立歴史民俗博物館における国際研究集会の記録。イスラエルの事例が豊富なのが興味ぶかい。「渚にて」との関連では、第二次大戦後の英国に広がっていたクリーン・ウォーのイメージの紹介など。
アウシュヴィッツと表象の限界 (ポイエーシス叢書)

アウシュヴィッツと表象の限界 (ポイエーシス叢書)

ヘイドン・ホワイトとカルロ・ギンズブルグの討論が一つの焦点となっている。カルロ・ギンズブルグ「ジャスト・ワン・ウィットネス」所収。「一人だけの証人は法廷において証人とはみとめない」法的伝統への言及。
記憶・歴史・忘却〈上〉

記憶・歴史・忘却〈上〉

補助線を延ばして、これを何とか撃破したいのだが……

ツェランの投壜通信

バッハマン/ツェラン往復書簡 心の時

バッハマン/ツェラン往復書簡 心の時

バッハマンとツェランの往復書簡の中には、両者が近しい関係にあるにもかかわらず、明らかにみとめられる断絶が存在する。持続を前提とした社会に生きる者と周囲が全て敵である経験をした者との立ち位置の差? 見える世界が違うならば、善意は役に立たない。
評伝パウル・ツェラン

評伝パウル・ツェラン

ツェランの生涯を紹介した日本語の著作としてはもっとも詳細なもの。ただし、「彼女は…読み終わると、ふん、と鼻でせせら笑い、その新聞を乱暴に投げ出した」(p210)式の根拠のはっきりしない、見て来たような安易な物語化をしている点については評価できるものではない。

人類を遠くから見る視座

「私たち」との距離を叙述の中でどのように取るかの問題。「私たち」の違いさえ見分けられないほど遠方からの視座においては、「想像の共同体」ではない、単数形としての人類がプレイヤーとなるのか。

たそがれに還る (ハルキ文庫)

たそがれに還る (ハルキ文庫)

他にもいろいろあると思うが、読んだものの中から。謎のメッセージを受けて、あまりにも無力な人類が圧倒的に不利な負け戦を戦う話。人類の孤立無援断崖絶壁ぶりは、かえって腹がすわって元気になるほど(「渚にて」と異なり、まだ戦っている最中だからかもしれない)。
映画『100,000年後の安全』パンフレット

映画『100,000年後の安全』パンフレット

核廃棄物の貯蔵施設について、次の氷河期後の人類にどのように警告するかの検討。数カ国語のロゼッタ・ストーンか、ムンク「叫び」か針山のオブジェか。意思疎通の限界をはかる思考として。
人類が消えた世界 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

人類が消えた世界 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

文字通り、人類を消しゴムで消すように地球から消失させたらどうなるのか/どうなっていたのかを考えるシミュレーション。人類が滅びた後、だけでなく人類がもとからいなかった場合も検討の対象。深宇宙を旅している筈のパイオニアボイジャーのメッセージに関する説明も。