フェアウェルを言うために。

はりぽたを見た。

ということで、真面目な合宿感想は脇に置きます。今回は妄想炸裂です。我が本領発揮。他人の嗜好に寛大な気持ちになれない人には、まだ引き返すチャンスがありますよ?
さて。

ハリー・ポッターと死の秘宝II

実家に帰って盆の行事に参加するのもそこそこに、逃げ出すようにとって返し、予約しといた映画を見て、真夜中の街を帰宅する――というのはまさしくろくでなしの所業だが仕方ない。数年間つきあった彼氏と円満に別れたが、三年くらいして偶然再会したところうっかり燃え上がってしまい、しかし何かがどうなるということもないまま年賀状のやり取りなど続けていたところ、先が長くないという話になって病院へ見舞いに行き、しかる後に葬式に参列する――といった関係が私とはりぽた(というかはりぽたシリーズの中のスネイプ先生)の間にある/あったのだよ。十年つきあいのあった男との別れなら、実家の盆より大事なのは言うまでもなかろう。五年なら気まぐれでも済むが、十年となると人生の一部、それも短かからぬ一部だ。
――勿論判っていますとも、二次元相手でなく、三次元でなぜそれをやらん、とあなたがおっしゃるのは。深夜の映画館ではりぽたを見るのは、若い彼氏彼女であったり、年配の夫婦であったり、年の頃はさまざまながらみなさんカップルであって、そこに一人でいるのは確かに痛かった。
という訳なので、「映画を見た」と言えるのかもよく判らない。印象に残っているのは、(あのシリーズ全般に言えることだが)全体を統御する筋とか構成とか構造とかいうものが見事に欠落しているということ、とは言え、俳優の演技を眺めたり、城とか変な地下とか小物の細部とかを眺めるのは楽しいということ、なので、環境映画としての需要はあると思うこと。未来の科学技術の粋なる武器による戦闘も、魔法使いの戦いも、光がぴゅんぴゅん飛び交ったり重いものがあたりかまわず押しつぶしたりする表現において、あんまり区別がつかないものだということ、魔法界は様々な意味において薄くて狭くて乏しいが、いくら何でも、歩兵による接近戦しか戦法が無いとは思わなかったよということ、やむを得ず戦争を行う場合は、間違っても素人によるゲリラ戦などを思ってはならず、きちんと訓練した正規軍どうしに戦わせるべきであることがよく理解できるということ、ちんぴらをのさばらせてはならずそのような意味においても教育は重要であること、結構派手な戦闘場面が多いにもかかわらず、何となく平板でだれた感じが続くこと、とは言え、うろ覚えな原作を大分器用に独立した映画作品に仕立て上げているということ(でも映画しか見ていない人にどれだけ理解できるかは謎だということ)、ロンとネビルがかっこよいこと、ハーマイオニーは美人でルーナは可愛いこと、――等である。スネイプ先生の場面以外では。
スネイプ先生に関しては、――この監督は、ということはシリーズ後半の監督は、ほぼ原作が完結していたというアドバンテージもあってか、シリーズ前半のスネイプ先生への冷遇ぶりとは打って変わってエピソードの取捨選択やらピントの合わせ方やらが的確なので――いやまあ、かっこよかったですよ。特に冒頭の背中とか。原作では、作者が何を意図し、ファンが何とかましな読み筋を探すべく努力しようと、作品の構造上、スネイプは結局のところ「うっかり情が移ったばっかりに身の破滅をまねいた可哀想な敵の三下」の位置づけを逃れられなかった訳だが、映画だと、「できがよすぎる余り疎まれて粛正されるナンバー・ツー」的な悲劇性がそこはかとなく漂って、ファンを悩殺することになる。脚本よりは役者の才能だろうけれど。それにナンバー・ツーと言っても所詮あれらの集団のナンバー・ツーではあるけれど。とりあえず、腐れ縁と思ってついて来てよかった(爆)。

ともあれ、葬式に出てしまったからには、さよならを言うべきだろう。実を言うと、私は数年以上前に書いた300枚のスネイプ先生本以来、きちんとした形での作品を書けていない。そろそろ私は自分のクレジットの付いた作品を作りたい。ティエ=クルブとか、ペトリ・アルマンとか、今のところ自分の空想世界にしか存在しない人物たちの話を書きたい。人間の好みの幅は狭いから、彼らはどこかしらスネイプ先生に似た部分を持っているが、しかし当然のことながら別人だし、スネイプ先生を題材にすることによってしか書けないことがあるのと同様、彼らについて書かなければ書けないことがある。ひょっとすると、あと一作だけ、スネイプ先生のいないスネイプ本を作るかもしれない。フェアウェルを言うために。それから、また自分の道を歩いていこうと思う。いささか長い回り道だったけれど。