王様を待ち続けるのも大変だが、歯車の雑談にも限りがない(3)

英国王のスピーチ」を見てきたという話でえんえんと書いています。そろそろ本題。

承前
だから、国王に求められていたのは、単に間違いなくスピーチの原稿を読むことだった。国王として義務感とか臣民に対する献身とか、誇りとか、内心いかに国王たることに忠実であろうとしても、その表現として求められるのは、国王らしく話すことだけ。
ワーディングはチェック済です。
対独宣戦布告後、国民向け演説の原稿とともに国王に渡された言葉。ワーディングはチェック済です。そりゃそうだ。これから戦争に突入するという非常時に、内閣官房だかの担当官が推敲に推敲を重ね、関係省庁と調整に調整を重ねて確定された帝国の総意だ、国王といえども揺るがせにはできない。一言一句とも。それにしても「国王のお言葉で」ですらないんだぜ、「ワーディングはチェック済です」しかしそれなら誰が読んでも一緒ではないか。ベテランのアナウンサーにまかせれば、きっとよほど悲愴に感動的に読んでくれるだろう。よりによって吃音症の人間が読まなくても。けれども、まあ、仕方ない。英国王室はニュー・メディアを通じて国民と直接結びつく戦略を選んでしまったのだし、十数年を経てそれはもう「伝統」になってしまい、誰もがそうあるべきと思ってしまっているのだから。そして多少なりとも近代的な民主主義国家だったら、国王はお飾り、所詮は他の臣民同様、帝国の歯車の一つにすぎない。
ワーディングはチェック済です。
ほんとうに、やってられない世界だよ。

現実の歴史において、1939年9月3日のジョージ6世の演説に至るまでにどのような経緯があったか、ということを映画はほとんど触れていない。ヒトラーという脅威が存在するとして、イギリスの政治家の誰が宥和でのぞみ、誰が強硬姿勢で望んだか、といったことは映画を見ていても明確にはわからない。名前と顔のある政治家たちは、単に「それぞれに主義主張の異なる政治家」を総体として表現しているだけではないかと思われるほどに型にはまった台詞を言うだけだ。つまり、この映画は「それぞれの政治家の主義主張」から焦点を外すことで、政治のリアリティを切り捨てている。さらに言えば、BBCのニュー・メディアのうち、テレビのことも慎重に切り捨てている。何故ならば。テレビなら、ただ立ってさえいれば後はテレビが何とかしてくれるからだ。政治のリアリティが存在する場所では、国王は個人的な弱点に拘泥してなどいられないからだ。何しろ国王の責務を背負い込みすぎて早死にしたような人間だぞ、融和策で頑張りましょう、いや強硬に行かないとヒトラーは何をしでかすかわからない、なんて論争が聞こえたら、どもりにめそめそすることをおおっぴらにするなんて、自分に許す訳がない。
だから、映画においては、ラジオが独裁者となり、政治色は極力切り詰められる。
退路を絶つとはこのことだ。おまけにラストは演説が無事成功して一見ハッピーエンドっぽいから興行的にも問題ないって?ーーつくづくイヤな脚本だな。
なので、映画の中でコリン・ファースはひたすらに喉を震わせ、顎をこわばらせ、ネガティブ思考回路にはまって涙目になり、癇癪を起こす。ジェフリー・ラッシュとの対話と信頼のよろしきを得て演説は無事やり遂げるものの、にもかかわらず彼は世間一般の名もなき障害を克服する吃音症患者ではなく大英帝国の国王なので、ライオネルの息子たちはーー兄は必ず、あるいは弟もーー彼が要請する耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ぶ挙国一致体制の中で、出征することになるのだろう。国王のせいでも、国王が悪いからでもないにせよ。

ということで、「英国王のスピーチ」は、刈り込まれた筋書きと均整の取れた背景の中で繰り広げられる、俳優たちの滋味豊かな演技を堪能する映画だった。人前で話すことにトラウマのある人は、フラッシュバックに苦しみながら、存分にその美味を味わうといいよ。

本日の教訓。

  1. 歴史によって映画を読んではいけない。
  2. 映画に描かれたことを歴史と思ってもいけない。

だからこれらも蛇足なのだが。

創られた伝統 (文化人類学叢書)

創られた伝統 (文化人類学叢書)