憎悪と虐殺のシェヘラザード

前回の来日でのヴィシニョーワとコルプの「白鳥の湖」は、愛と成長の物語なぞではなく、欺きと偽りの物語だった。ならば同じ二人による「シェヘラザード」が暴力と憎悪と、狂気と虐殺とを舞台に噴出させたとしても、驚くにはあたらない。
バレエ「シェヘラザード」とは何か? それは、リムスキー=コルサコフの、情感に訴える、けれども現実のペルシア音楽とは多分ほとんど関係のない「なんちゃってペルシア」音楽、波斯国なのか支那国なのか国籍不明考証無視のどこかのラノベイラストみたいな「なんちゃってオリエント」美術、やたらにクネクネしては五体投地に励み、あるいはその場駆け足にいそしむ得体の知れない「なんちゃって土人」群舞、そして主演の男女による、時々あられもない絡み合いの混じるパ・ド・ドゥの混合体である。まる。
しかし、その混合体が一つの虚構として丸ごと受け入れられた時代・場所が多分あったのであり、現にあるのだろう。例えば別のバージョン、別のダンサーによって踊られるならば。
バレエ「シェヘラザード」に付された筋書きによれば、シャリアール王は弟に愛妾ゾベイダの不貞を密告されて疑念を生じ、狩りに行く振りをして真実を確かめようとする。はじめに疑念ありき。王たちがいったん退場すると、観客は、どこかに隠れた王たちとともに真実の目撃者となる。そして舞台の進行は、唐突に提示され、全く根拠を持たなかった疑念がまさに真実であることを証明するのだ。宦官を買収し奴隷部屋の鍵を奪うハーレムの女たち、自ら金の奴隷を解き放つゾベイダ。
――それにしても、観客が、すなわち王たちが息をひそめて見守っているというのに、王の計略に騙されて馬脚をあらわすとは、何と愚かな女たち、奴隷たちであることよ。
つまり、バレエ「シェヘラザード」の筋書き、各種「なんちゃって」の接着剤であるところの筋書きだけを眺めてみれば、そこにあるのは、支配者である男が、女や被支配者である男に向けた不信と侮蔑のまなざしである。まる。愛も異国趣味も幻想も入る余地がない。
というふうには普通、舞台はつくらない。「ジゼル」が今や不幸な行き違いによって死に別れた純愛の恋人と理解されるように、「シェヘラザード」もまた、ゾベイダの複雑な愛憎の結果であるとか、ゾベイダと金の奴隷の禁じられた愛だとか、被征服者たちの尊厳であるとか、現代の欲望に引きつけられた解釈をなされ、あるいは踊られる。
しかし、そういう希望的観測すべてを引き剥がし、支配者の男の偏見に乱された目にまなざされた「なんちゃって」アマルガムとしての「シェヘラザード」を舞台にのせたらどうなるか。
意志疎通の不能、それどころか身体的なものも含めたコミュニケーションの不能。王は支配者としての外見とは裏腹に、はじめからヴィシニョーワのゾベイダの動きを支配しておらず、それどころかクネクネと海藻のようにまとわりつく群舞のことさえコントロールできない(王はそもそも踊らない)。マイムに、つまり意味とものまねに動きを売り渡している王と王弟は、動きに対する疑念に苛まれながら、いったん舞台から放逐される。ヴィシニョーワの王国に住むことを許されるのは踊ることのできる者か、彼女の一味に買収された者、彼女の力に帰依することをあかしした者だけだ。女たちと男であることを捨てた男たち。
しかし、それはユートピアではない。ユートピアと見なすこともできる状況ではあるが。それはヴェヌスベルクであり、むしろジゼルのいないミルタの王国だ。
それゆえ、金の奴隷は踊り死ぬことを命じられたアルブレヒトでなければならない。そうでなければコルプの金の奴隷の錯乱ぶりは説明がつかない。何ゆえに、例えそのような振付であるにせよ、コルプは跳躍ごとに、動きの美をほとんど犠牲にする激しさで地に倒れ伏さなければならないのか。勿論、倒れ伏すまで全力で踊れとゾベイダに命じられたからであり、そのように踊れば一夜を女主人の傍らに侍ることを許されるからであるに違いない。後のシャリアール王の蛮行はすでにして、観客と王と王弟の面前で、その愛妾により行われていたのである。まる。何という完璧な状況であろうか。
それゆえに、ついにゾベイダが金の奴隷を臥所に招き入れたまさにその瞬間、王たちは姿をあらわす。自分の偏見が真実であったことを確信した者の自信にあふれて、王は兵士たちに後宮の虐殺を命じる。逃げまどい、兵士の白刃の前にむなしく飛び出して斬り殺される女たち、奴隷たちには京劇や歌舞伎でやっつけられる三下たちほどの様式美さえ与えられていない。金の奴隷とて同様。舞台にあるのは胸がむかつくような殺戮の場面だ。そこに何らかの正義があったとしても、その正義は、愛妾が王に命じられた通りに自死すれば、そのなきがらを抱き上げてあっさり嘆き悲しむ程度の整合性しか持ち合わせていない。ヴィシニョーワが傲然とその妖艶な動きを誇れば誇るほど、筋書きはいよいよその醜さを露呈する。
そのような作品は、観客を酔わせない。少なくとも夢見ていたい観客のことは。しかし、夢と幻想を引き剥がして醜さを露呈する、その手つきの鋭さ美しさにブラボーと声を上げることもできる。

相変わらず、何を見たかではなく、何を妄想したかに力点が置かれた感想になっております。言い訳をすると、三階席からは、私の乏しい視力ではフォーメーションとそれぞれのダンサーの動きの質の相違しか見えず、動きの細かなニュアンスは判らなかったからなのだが――オペラグラス使えという忠告はその通り。
今回、介護疲れでややグロッキーな母親を連れ出しての観劇だったのだが、母と私で拍手の場所が見事に違うのが面白かった。マリインスキーの美しさ優雅さに目を開かれた母には、ヴィシニョーワの踊りは今いちツボにはまらなかった模様。私の方はけったいな「シェヘラザード」の他は、「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」でのサラファーノフの動きの美しさと音楽性を特筆したい。前回来日時はヴィシニョーワとコルプの翌日の「白鳥の湖」を見て、コルプの引き立て役で終わっていたのだけれど、その印象はあらためました。とても目にこころよい。