2009秋ベルリン+@旅行記(15)

coalbiters2009-10-28

DAY7-1:歴史の地層(ただしベルリンは軟弱地盤注意)

この日は余裕をもってスケジュールを組んでいたので、時間が余ったら行き損ねたところへ行こうと思っていた。

赤の市庁舎とニコライ地区

何しろ就寝が早いので、朝はいつも時間をもてあます羽目になる。博物館は10時にならないと開かないため、それまでの間、アレキサンダー広場駅からウンター・デン・リンデンへ向かいつつぶらぶらすることにした。しかし、日曜日の9時前に歩き回る勤勉な観光客は、私と、中国人らしい一家くらい。

市庁舎前の広場にあるポセイドンの噴水(の細部)。元々は、現在復元を待つベルリン王宮横にあったらしい。亀とざりがに。
 
多分四方位を象徴しているのだと思うが。鰐とあしか? 科学の時代の古典風彫刻だぜと言うことなのだろうけれど、どうにもセンスが判らない。市庁舎前には社会主義時代の勤労男女の彫像もあったが、帝政期の噴水に比べ、華やかさと奇抜さで大分劣るのは否めない。

市庁舎から通りをへだてた隣の街区は、ベルリン最古のニコライ教会を囲む落ち着いた街並み。通りに椅子を出しているカフェもあってぶらぶら歩きによさそうな風情だ。表通りの自己顕示的御威光建築との雰囲気の相違はかくのごとし*1

DDRミュージアム

シュロス広場でパネルを解読しつつ日向ぼっこをし、10時を回ったところでDDRミュージアムへ。文字通り、ドイツ民主共和国の市民生活にスポットをあてた博物館で、全編オスタルジーといった様相を呈している。当時の食事、服装、生活雑貨、映像、学校や職場、等々を引き出しや戸棚を活用して説明していた。開場したばかりの時間というのに、すでに混雑度は芋洗い状態。クラスかサークルで来ているらしい子供たち、お年寄り、観光客。懐かしの昭和30年代、みたいな位置づけなのだろうか。存外に小さい(ワンフロアしかない)上に混雑しているので、DDRの名前と懐古趣味にこだわらなければ、歴史博物館やTHE STORY OF BERLINのDDR特集で代替できると思う。どうもノスタルジーの垂れ流しは私の肌には合わなかった。

ドイツ歴史博物館が救いがたく悪趣味であったこと

ドイツの歴史に思い入れがある訳ではないので当初は前を通るだけの予定だったのが、「Wir sind ein Volk」と書かれた宣伝カーに釣られて見ることにしたのは以前書いた通り。ざっと眺めて「一つの国民」ぶりを意地悪く検証するつもりであった。それが、ざっと見るだけで5時間以上かかることになろうとは。
そもそも、国立の(ということでいいのだろうと思うが)歴史博物館という存在自体、近代国家にとってはいざ知らず、現代の国家にとってはやっかいな代物である筈だ。歴史とは何の歴史なのか。国家の歴史なのか、国民の歴史なのか。国家の歴史の場合、直近の国家以前についてはどのように位置づけるのか。民族移動はどう扱うのか、移民にはどう言及するのか。植民地との関係はどうか。また、歴史とは権力者の歴史なのか、庶民の歴史なのか。事件史なのか社会史なのか。云々。ましてドイツは、過去に関して言い訳のしようのない傷を脛に持つ身なのだからして。
結論を言えば、ドイツ歴史博物館(の常設展)は、見事なまでに古色蒼然たる保守反動に徹することによって、この問題をクリアした。というかスルーした。歴史とは王や皇帝やその他権力者や、歴史上の偉人を主体とするものであり、その表現は政治史であり戦争史であり事件史であり、資料は文書そのものであり歴史的瞬間をあらわした絵画であり、その他価値判断の入り込みようのない記念碑的・象徴的事物である。下々の生活の記憶など知ったところではなく、それらが取り上げられるのは、あくまでも国家の栄光や文化的遺産を高める限りにおいてのことにすぎない。何か文句あるか。まる。
現代の国家がかくも19世紀的なスタンスにおいて歴史博物館を維持する、ということの是非は別に大いに議論すべきことであることを指摘した上で、この戦略は確かに以下のごとき利点を国家にもたらす。

  • かような19世紀的スタンスが、19世紀ドイツの学問的潮流から生まれた歴史的思想と見なすならば、歴史博物館の維持そのものが、ドイツ独自の文化的蓄積の継承につながる。
  • 一般的に中立・客観的と見なされやすい事件史を標榜することで、解釈の底なし沼に落ち込まずに済む。謝罪・反省についても同様である。
  • 権力者側から見た歴史であるため、被害者側の歴史を描かずに済む。場合によっては被害者そのものを黙殺できる。

よりによってドイツが19世紀的スタンスの歴史博物館を作ることの意味については、別に考えなければいけないと再度繰り返しておいて、続く。

*1:ただし、この辺りの建物は近年復元されたものらしい。