2009秋ベルリン+@旅行記(13)

coalbiters2009-10-25

DAY5-3:過ぎ去ろうとしない過去。

元ネタは未読。今回の旅行で自分の立ち位置と補助線の引き方がぼんやり見えてきたので、今後ぼちぼち読んでいくつもり。さて。

カレーヴルストを食べたこと

空腹をかかえながらクーダムの通りを歩く。クーダムと言うのは、正式にはクアフュルステンダムとか舌を噛みそうな発音をすべき、西ベルリン側の繁華街である。例えるなら(銀座ではなく)有楽町、あるいは2段階くらいセレブ度の下がった表参道といった風情であって――つまり、東京の目抜き通りとさして変わらない。建物も通りも東ベルリン側に比べると小じんまりしているし。なので、歩いていてもあまり面白くない。時間も押してきたので、適当なところで地下鉄に乗って次の目的地に向かうことにした。サイズが大きければ非人間的だと言い、小さければつまらんと言い、観光客というのはつくづく身勝手だと思うが。
やたら古めかしくて装飾的なウィッテンベルク広場駅の前に屋台が出ていて、みんなが美味しそうに食べていたので、思わず並んでカレーヴルストを注文した。本当はパン付きが欲しかったのだが、屋台のおばさんはてんで取り合おうとせず、前の小学生に渡したものを指差して「これでいいでしょ」と言うので根負けする。実際のところはソーセージwithトマトケチャップwithカレーパウダーひと山にフライドポテトがひと山つくと、それだけで結構立派な食事になるのだった。トマトケチャップにカレー粉を足しただけで何がベルリン名物だと思っていたけれど、なかなか美味しい。腹ごしらえが済んだところで、地下鉄でGleisdreieck駅へ。

アンハルター駅跡について

Gleisdreieck駅はドイツ技術博物館の最寄駅で、この博物館は戦前ベルリン最大規模の駅だったアンハルター駅の操車場跡にある。地下鉄1号線はこのあたりでは高架で、いちめん草木のそよぐ河原みたいな景色に一体何だと不思議に思っていたら、そのあたり全てが再開発を待つ(?)操車場跡地らしいのだった。駅から博物館まではドイツ鉄道の関連会社の敷地なのか、湾岸の物流倉庫街みたいに無愛想で人気がないし、一帯がそもそも、都市博中止後不景気の大波をかぶって先の見えない平成10年前後の臨海副都心みたいに時が止まっているし、到底都心にあるべき風景ではない。
 
アンハルター駅は、私が聞きかじった断片的な知識によれば、空襲でやられ、ベルリンの壁建設でとどめを刺されたらしい。博物館の敷地(?)にはプラットホームが復元されており、往時の駅についての説明パネルもある。広い。そして人がいない。
ルーマニア(ただしその前はオーストリアハンガリー、現在はウクライナ)はチェルノヴィッツ出身のユダヤ系のドイツ語詩人パウル・ツェランは、1938年11月10日、大学進学のためにフランスへ向かう途中、水晶の夜のまさに翌日、アンハルター駅に到着した。前日付で女友達宛に、森の上に煙がただようのを見て、シナゴーグや人間が燃えているのではないかと恐ろしく感じた旨の手紙を書いていたことが、関口裕昭「パウル・ツェランへの旅」に見える。
 
ラントヴェーア運河を渡り、こぎれいに整備された公園の横を数百メートルばかり歩くと、駅舎の廃墟みたいな建物がそびえていた。ここがアンハルター駅の入口だったらしい。傍らにユダヤ人の移送に使われた駅を保存して記憶する旨のパネルが立っていた。S-Bahnのアンハルター駅のすぐ横で、ベルリンの壁に関わる各種観光名所にもほど近い。日付を調べていて気づいたのだが、1989年11月9日の壁の開放は、1938年11月9日の水晶の夜のちょうど51年後にあたる。その夜に壁の開放を祝えば、メディアのキャパシティには限界があるからして、水晶の夜は語り落とされる訳だ。

シナゴーグと居心地のよい中庭のこと

ポツダム広場駅から地下鉄に乗ってOranienburger Tor駅へ。通りに沿って歩いていると、アングラな感じのビラを至る所に貼り付け、落書きに汚れたいかにもうさん臭い建物が現れる。デパートの廃墟をアーティスト達が占拠したところだそうで、中に入ると中庭でアクセサリーを売ったり、鉄を加工してオブジェを作っていたりする。なかなか楽しい雰囲気だ。

その他、職場や実家への土産を探す下心のもと、ガイドブックに出ていたヘックマン・ホーフとハッケシャー・ホーフというところにも行ってみた。ホーフというのは中庭側にいろいろな店が出ている複数の建物の連なりらしく、内部は、人ごみもさほどでないし、噴水はあるし、木陰はあるし、花も咲いているし、半端でなく居心地のいいところだった。どこのイスラム世界? とか思わず心に呟いていた。この居心地のよさに比べると、外の通りはあまり楽しくないし、快適でもないことが判る。思うに人口の割に街区の規模が大きいベルリンでは、道路というのは生活の場の延長ではなく、単に移動のための手段であり(実際、かなり露骨に車社会だ)、中心市街地であっても、建物の外はどんな他者と出会うか判らない外部と見なされているのではないだろうか。
という事実を突きつけられたのは、光り輝く屋根を持つシナゴーグの前に柵がめぐらされ、入口の前を小銃を持った警備員もしくは警官が警戒しているのを目にした時だった。総選挙直前で、最寄駅でも小銃に加えシェパードまで連れた警官が巡回していたとはいえ(鉄道テロが起こるかも、とニューズウィーク誌がさんざん煽っていたのだ)、永田町レベルの警備は尋常ではない。建物の外は敵地であるかもしれないが建物の中にこもれば快適さを保証される都市において、通りに向けて顕示された政府・権力者の建築は誰に向けて、どのような意味を伝えるのだろうか。通りに建つ記念碑は、都市住民の記憶にどれだけ訴え得るのだろうか。住民はお互いを見ているのだろうか。といったことを考えた。
続く。

2009年9月25日の旅程。