2009秋ベルリン+@旅行記(11)

coalbiters2009-10-22

プラハ日帰りの翌日は午前中を休養に充てるつもりだったのだが、いつもの癖で7時には起きてしまう。湯船につかれないせいで体中がバリバリするものの、驚くべし、お肌は近年になく絶好調だった。単にお日様の下を一日中歩き、バランスはよさそうだが大分簡素な食生活を送り、夜は8時間寝ていただけなのに――というか、普段のオフィスワークが運動不足と睡眠不足とストレスで、どれだけ体に負担をかけているか、ということでありましょう。

DAY5-1:20年前のアレキサンダー広場、今日のカール・マルクス

ベルリン街歩き篇その2。アレキサンダー広場から、東ドイツ時代には軍事パレードをやっていたというカール・マルクス大通りをひたすら歩こうという趣向。

我われこそが人民である。


アレキサンダー広場は一面、銀色の吹き流しのようなものに覆われていた。よく見ると、吹き流しには文字が書いてある。WIR SIND DAS VOLKとか何とか。我われこそが人民である。1989年当時のデモのスローガンだ。つまり、銀色の吹き流しは20年前のプラカードの群れの残影で、広場では「平和な革命1989/90年」と称する屋外展示をやっていたのだった。入場無料でありながら、かなり本格的な内容で、1989年の大きな運動には前史として教会や環境問題や人権問題の活動家のルーツがあったこと、それらのグループの地下出版(30年前の同人誌といったおもむき)、
 
天安門事件、89年5月の地方選挙に対する批判、出国の嵐、ノイエ・フォーラム、ライプツィヒをはじめ各地で繰り広げられたデモ――

展示のクライマックスは、1989年11月9日の壁の開放でも、ましてや翌1990年10月3日のドイツ統一でもなく、これらのデモであり、ことに11月4日のベルリンでの大デモだった。パネルによれば、その日のアレキサンダー広場には上の写真のような大群衆が結集したらしい。確かに展示を見ていくと、それまでの運動の蓄積の上に1989年があったこと、11月9日の記者会見が無かったとしても、壁が崩壊するのは時間の問題だったであろうことが察せられる。今はだだっ広く、人通りも少なく、その日の熱気をうかがうすべは無いが。
「我われこそが人民である」という銀色のスローガンが青空の下でかがやく。そこには「我われはひとつの国民だ」という、その一月後にはもう生まれていた筈の、もう一つのスローガンの影は差していない。つかの間のユートピア。あるいはひょっとすると、ここにはオスタルジーがひそかに紛れ込んでいるのかもしれない。

しけたマルクス

 
引き続き、カール・マルクス大通りへ。確かに道幅は広いし、両側の建物はエラソーだが、軍事パレードで名を馳せた昔日の面影はない。何しろ、芝生の中央分離帯はあわれパーキングと化し、トラックやら自家用車やらが駐車しているのだ。威厳に欠けることおびただしい。うらさびれた団地の生活道路みたいな案配だった。立派な街路樹の下の歩道は全くと言っていいほど人通りがないし、いると思えば年金生活とおぼしきお年寄りがスーパーの袋を下げて歩いているだけ。
 
右の写真は、「善き人のためのソナタ」のラストに出て来た本屋じゃないかと思うのだが(カール・マルクス書店!)、ご覧のとおりの閑古鳥。ここに本を平積みに並べても、変化に取り残された年配者しか買わないのではないかと邪推してしまう。あの映画のラストは、主人公の劇作家と元シュタージの彼は統一後、オスタルジーの底なし沼にはまって救われません、という話ではなかった筈だけど…
30分ほどで地下鉄4駅分を歩いてワルシャワ通りへ。こちらは店の並ぶやや賑やかな通りだった。ふと視線を感じると、ケバブ屋やアジアンフードの屋台の中からトルコ系やその他アジア系のおじさんがこちらを品定めしている。というか、今イチいけてない格好の東洋人をじろじろ見るのは同じ東洋系ばかりで、相当に白人率の高い街であるにもかかわらず、いわゆるドイツ人な人々の視線を全く感じなかったのも妙であった。こちらが明らかに観光客だと判ると面倒を見てくれるのだが、そうでないと「いないこと」にされていたような気もする。ともあれ、ワルシャワ通り駅からU-Bahnに乗ってウーラントシュトラーセ駅へ。核シェルターに入るのである。続く。