2009秋ベルリン+@旅行記(9)

coalbiters2009-10-13

DAY4-2:プラハアンダーグラウンド(2)

承前。ここで言うアンダーグラウンドは文字通りの意味、すなわち地下のこと。廃墟萌えとか工場萌えとかいう言い方に倣えば、私は疑いなく地下萌えの人間であって、上水道よりは下水道、橋の上ではなく橋の下、屋根裏部屋のかわりに地下室をこよなく偏愛する。前世はネズミだったのかもしらん。

アングラ的カロリヌム

WCの表示の横にいかにも素人じみた、手作り感あふれる看板があったので、ほだされて覗いてみることにした。いずれにしても地下にあるらしい。
 
トイレは左だった。小綺麗で申し分ない。カレル大学の歴史についての展示(無料ナリ)は直進しろとある。なので直進した。

ちょっと待て、本当に展示はその先か? 壁にはカレル大学出身の有名人の写真などが入った額が吊るされているが、学生有志のサークル活動の成果としか思えない。先の部屋に進むと、ケースに入った書類やらの展示が始まったが、
 
一体、あなた方は地下室を見せたいのか展示を見せたいのか。
とにかく奇怪な地下室であった。たいそう古いことは判る。作られた当初の目的から、時代を経るにしたがって用途が変わって来たであろうことも判る。用途にあわせて増改築を繰り返したであろうことも想像できる。天井を支えるアーチをさえぎって生える柱、埋め殺された窓、空中に消える階段、どうにも段差を修正しようもない高さの壁に突然口を開ける扉。何と言うか、リアル「牢獄」(byピラネージ)のような建築的混乱。しかし、床はきれいに整備してあるところを見ると、好奇心にそそのかされた旅行者を誘い込んで悪魔の犠牲に捧げてしまうような、大学秘密結社の集会所ではないのであろう、多分。
 
住み心地のよさそうな部屋もある。ただし、相当に質素だ。そして剥き出しの石の壁から発散される乾燥した土埃の匂いは半端でない。空気に触れて復活した中世の病原菌があふれ出したとしても私は驚かないし、
 
見えないくぼみから白骨化した死体が発見されたとしても驚かない。それにしても、この上に建物が建っている筈なのだが、どのような構造で支えているのだろう。
 
行き止まり。壁際に中世の遺構の柱らしきものが並べてあるが、キャプションの類はなし。倉庫なのか展示室なのか。奥の扉の向こうには、何事もないような顔をして、普通の事務室が続いているのだろうか。戻る途中に機械室というか、配線ユニットがあった。蟻の巣みたいな構造の奥まで配線する技術屋さんはすごい。
帰国後、大学のホームページに説明を見つけた。どうやら大学の建物の前身の前身あたりからのものがぐちゃまらになっており、彼らはそれを展示しているつもりらしい。

The fundamental ground plan disposal of the building is based on the Romanesque-Gothic premises of the original palace, which were once countersunk first floors of the thirteen-century houses (now with a permanent exposition on the university‘s history), above which Rotlew Palace was built in the1360s. A Gothic reconstruction at the end of the 14 century, suggesting monastery premises in many aspects (cross corridor with a cloister), adapted the building for university purposes. The medieval college rooms were intended not only for classes but also for accommodation and the university administration headquarters. On the first floor there were the offices of the rector, of the university notary, the university treasury (fiscus), and a carcer for the members of the academic community. Other rooms were specifically used for classes.
Charles University Historical Residence of CU

シナゴーグユダヤ人墓地

外に出ると一雨去った後だった。旧市街広場をしばらくふらふらした後、道なりにユダヤ人地区へ。幾つかのシナゴーグと墓地がセットでユダヤ博物館を構成している。ベルリンのユダヤ博物館と異なり、プラハユダヤ博物館では、せいぜいここ300年の間に自分たちの先祖が使っていた祭礼の道具、生活の道具を淡々と展示している。自分たち、と言うのは各シナゴーグの入口でチケットをチェックしていたのがユダヤ人と思われる年配の人たちだったからだ。
確かに生活に密着した用具ばかりの展示は、他の伝統や習慣に属する人間に対して十分開かれているとは言えないかもしれない。つまり、簡単に判らない、直感的に納得できない、というのを開かれていない、と言うならばだが。見学者はそれらのモノが生活の中でどのように使われたかを自分の知識を動員して想像しなければいけない。しかし、そもそも宗教や日常生活が赤の他人に開かれる状況こそが異常なのだ、とも言える。大体、どうしてこれだけの数のシナゴーグが、今日、宗教の場から博物館に転用されているのか。「考えてみよう」と先回りして呼びかけ、引き出しの中に答えを忍ばせる(ドイツの博物館は何故か引き出しが大好きだ)ベルリンのユダヤ博物館のあり方より、あえて語られないプラハユダヤ博物館のあり方のほうが、私には好ましいし、過去に対する敬意をそなえているように思われる。
全てのシナゴーグをまわる時間的余裕は無いと判断したので、葬送儀礼の展示を中心とした儀式の家、祭具や生活の道具を展示したクラウスシナゴーグナチスに殺されたボヘミアユダヤ人の姓名が壁一面に記されているピンカスシナゴーグと墓地を回った。墓地ではイスラエルから来たとおぼしき一群が、熱心に墓標のヘブライ文字を読んでいた。

売店で小冊子を買ったら日本語で「ありがとう」と言われる。北京から直行便が来ているらしいベルリンでは、東アジア系の観光客の大半は中国人のようだが、プラハではまだ日本人が優勢なのだろうか。その後、小さな帽子をちょこなんと頭に載せた、カフカを子供にしたような可愛い兄弟(多分双子)と後になり先になりつつ、ヴルダヴァ川沿いを散歩した。続く。