2009秋ベルリン+@旅行記(8)

coalbiters2009-10-12

友人が遊びに来たので、撮りためたピンボケ写真を示しつつ、旅のみやげ話をした。相手はガイドブックをぱらぱら眺めて、「君が話した街がここに書かれている街と同一のものとは到底認めがたい」と言った。しかし、友人のおかげで、フランクフルト・オーダーの市庁舎と教会の間に建っていた偉そうな紋章つきの建物が商工会議所らしいと判明したのだった。成程、マーキュリーの杖と秤で商業か。私は何で薬屋(?)がこんなところで威張っているのかと腑に落ちなかったのだ。だんけだんけ。

DAY4-1:プラハアンダーグラウンド(1)

ベルリン行きが具体的な計画になり得ることに気がついて、トーマス・クックの時刻表を買い、ベルリン-プラハ日帰りができることを発見した瞬間、今回のベルリン旅行は既定路線と化したのだった。湯船なしの部屋も、私の生活の必要からすると高い料金も、全ては朝5時にベルリン東駅を出発し、夜の23時30分に帰着するこの日程のため。もっとも、料金については駅構内直結で、部屋からホームまで5分とかからない立地を考えればこんなものか。場所柄、ドイツ鉄道御用達らしく、制服を来てカートを引っ張る車掌さんたちをよく見かけた。

Berlin Ostbahnhof→Praha hl.n.

3番線発車なのは判っていたので、前日のうちに乗車位置を確かめておく。しかし、このプラットホームを発着する長距離列車は一日にこの6本しかないのか。しかもそれぞれの列車はほとんどがら空きだ。一体どうやって採算を合わせているのだろう。
翌朝、発車15分前にホームに上がってみると、すでに先頭2両分は到着していた。チェコ鉄道の車両であるらしい。
 
中に入って自分の座席を捜索しているうちに鈍い衝撃が。外に出ると後続の寝台車両が接続されたところだった。アムステルダムから長旅をして来た夜行列車である。

乗客が窓を開けて様子を見ている。この時期のベルリンの日の出は朝7時前後なので、まだまだあたりは真っ暗だ。定刻どおり5時ジャストに出発。車両の中には、私の他にはやはり旅行者らしきお兄ちゃんしかいない。トイレの状況を確かめた後、ドレスデンまでうとうとする。
7時過ぎにドレスデンに着いたあたりで夜が明けて来たが、雲が厚くて天気はすっきりしない。車窓から眺める限りのドレスデンは、漫然と集合住宅の建ち並ぶ地方都市だった。停車中に警察が乗り込んで来て、改札の時にも車掌と押し問答していた旅行者らしきお兄ちゃんに何か言って去って行く。ここも定刻どおり出発。10分ほど経つと線路は渓谷を、ゆるやかに流れる川に沿って走っていた。白樺とトウヒの森がひらけると小さな集落があり、牧草地で牛が草を食んでいる。7時38分、Bad Shandau着。ドイツ側の国境駅である。ここも定刻どおり。7時50分、たいそうひなびた、というより無人駅ではないかと思われる山中の駅に到着。時刻表によれば、この時間帯に停車するのはDecinというチェコ側の国境駅である筈だが。

ホームの見えないところで男性と女性がしゃべっていて、時々女性の高笑いが聞こえる。犬の吠える声。
8時30分。まだ止まっている。一度、ドイツ鉄道のおばちゃん車掌が猛然と通路を歩いてホームに出て行ったけれども、何の音沙汰もなし。寝台車の客も出て来て、外で煙草を吸っている。車両の暖房は停車中は切れるらしく、どんどん寒くなる。8時40分、さすがに凍えてホームに出たら、前方から牽引車が近づいて来るのが見えた。こいつ待ちだったのか? 8時45分、ようやく出発。ホームから「Auf Wiedersehen!」という声が聞こえた。その口調はどう考えても「じゃあねーえ。がんばってねー」なのだった。チェコ側の遅れは日常茶飯事らしい。交替で乗って来たチェコ鉄道の女性の車掌は、ベリーショートでスレンダーで、後ろ姿が超美形だった。
8時50分、Decin着。さんざん待たされていた乗客がわらわら乗って来る。ということは、我々は名もなき駅に放り出されていた訳か? 9時10分、Usti nad Labem着。ほぼ一時間の遅れ。乗って来た学生らしき女の子がテーブル席を占拠してすごい集中力で勉強を始める。ファイルはクマのプーさんで鞄は「夢」とか「歌」とか漢字のちりばめられた得体の知れないデザインだが、緑のペンでアンダーライン引いている熱心さが微笑ましい。山には雲がかかり、アスファルトもスレート屋根も見事に濡れている。その先、あたりは大分ひらけて来て、刈り取りの済んだ麦畑が一面に広がる。
10時15分、Praha Holesovice着。チェコ語と英語のアナウンスで、一時間の遅延をアポロジャイズしていた。時刻表によると、地下鉄で3駅だというHolesovice駅とPraha hlavni駅の間を40分も取っているので、当初の予定ではここで降りて地下鉄を使うつもりだったのだが、遅れている以上余計な時間調整はしない筈と踏んで引き続き乗って行くことにする。プラハ城だヴルダヴァ川だと喜んだのも一瞬、線路は市街を大きく迂回してトンネルなどもくぐり、10時30分にプラハ本駅に到着した。定刻からは30分の遅れ。

プラハは人間サイズの街である件

今回、実家向けの安否確認についったーを導入して、旅行中は携帯電話から呟いていた。プラハからは「プラハの街は小便くさい」と報告したのだが、帰国するとその件がたいそう親の不興を買っていた。いやこれ、褒め言葉だから。街を歩いていると柱のあたりがそこはかとなく匂う。カロリヌムの横の壁にはゲロが吐いてあった。歩き煙草だけは、東京の禁煙条例に慣れて嗅覚がすっかり繊細になってしまった身には閉口ものだったが、人間の肉体から出る匂いをまとわりつかせてこそ街だろうと私は思うのである。ベルリンは大きくて、ひょっとすると小便臭さやゲロが存在するにせよ、道を普通に歩いていればそれらと接触する必要が無かったのだ。言わば、五感の中で圧倒的に視覚のみに依拠する街と言うか。高層ビルの高層階で仕事をした経験のある方には思い出して欲しいのだが、視覚だけで街をはかっていると、だんだん思考が非人間的になってくる。個々の事情はみな捨象して、何か一つのでっかい計画をつくれば上手くいくような気になるのですな。ベルリンの大通りやランドマーク的建築物の、大きくて単調なランドスケープには、それに似たアンバランスが存在していて、時々少し居心地が悪かった。プラハには少なくともそのような種類の居心地の悪さは存在しない。
ベルリンではこのようなスケールであるのが、

(ナチが焚書したベーベル広場。大きな自動車道路をはさんで向こうに建っているのがフンボルト大学、写真には写っていないが、広場の右側にシュターツオーパーがある)
同じシチュエーションがプラハではこうなる。

(通りの左側はモーツァルトが「ドン・ジョヴァンニ」を初演したとか言うスタヴォフスケー劇場、右はカロリヌム(カレル大学本部)。ゴシック様式の出窓の部分が14世紀の設立当初の名残だとか)
途中、ベルリンスケールが抜けきれず、駅から旧市街広場に行こうとしたら曲がるべき角を通り過ぎて、ヴァツラフ広場まで大回りしたりしたため、観光名所エリアにたどり着いて一安心。プラハについてはひととおり観光名所をたどるゆるいプランを計画していたのだが、ふと横を見るとカロリヌムの内部の天井アーチが格好よかったので、展覧会の料金を払って中を見学することに。これが思わぬ拾い物となったのだった。

(やっていたのは世界報道写真展
ということで、プラハアンダーグラウンド本編は以下次号。もっともちっとも観光名所ではないが。