はぐるま、「戦争と平和」を読む(2)

引き続き、クールダウン中。

まずは文庫の体裁について難癖をつける。

さて、トルストイの「戦争と平和」である。ボンダルチュクの映画が戦争の場面はたいそうかっこよく、人間関係の部分はかなりうんざりするのに興味を引かれて、原作を読むことにした。地元の本屋をのぞくと、幸いなことに岩波の在庫があるようだーーとひと山掴みかけて、はたと気づく。交互に訳者が違うじゃん!(爆)
つまり、奇数巻は新訳で、偶数巻は古い米川訳だったのである。文字の小ささと詰まり具合から察するに、旧訳は新訳ほど冊数が無い筈なので、これはどう考えても本屋の商売としてフェアじゃない。文体は米川訳の方が好みに見えたけれど、旧訳だから大型書店であればあるほどないだろうし、十年かけて古本屋や町の本屋の隅からこつこつ集めて読むほどには興味のある小説でもないし、という訳で新訳で揃えることにした。とは言うものの、文字が大きく行間も広くて読みやすい新訳には訳者がでしゃばりたがるという最大の欠点があってーーどれ位でしゃばるかと言うと、本文中にコラムを作って能書きを垂れるのだ。ハヤカワか創元推理のシリーズものかと見まごう冒頭の登場人物一覧や巻頭巻中巻末の地図は許容するとしても、判りやすさとっつきやすさを一に考える努力がどうして巻中コラムに結実するのか、岩波文庫的にそういうことがどうすればOKになるのか、よく判らん。はっきり言って邪魔だよ。ついでにこれもどうやら判りやすさを優先してのことじゃないかと思うが、本文中に父称のたぐいがほとんど全く存在しない。とにかく読みやすくしないと読者は手に取ってくれない、という強迫観念には同情するが、しかしこれってどの程度原文に忠実なんだろ、と一抹の疑いを抱いたことも事実だ。この翻訳を用いて「戦争と平和」についていろいろ言っても大丈夫なんだろうね? 翻訳者の解釈に文句言っているだけにはならないね?
それとも、作品に対するトルストイの傍若無人な神っぷりに対する気の利いた批評だったりするのだろうか? これら全ては。

次に、読み手の事情を開陳する。

ということで、トルストイの「戦争と平和」である。
まだ純情素朴な中学生だった頃、マキノは中学生にもなったら世界文学全集に載ってる類の作家は一通り読んでおくべきだろうと思い立って、父よりは本を読んでいるらしかった母にたずねた。
「お母さま。私はロシア文学を読んでみたいと思っているのですが、トルストイドストエフスキーと、どちらがお薦めでしょうか?」
母は即答した。「トルストイがいいわよ。ドストエフスキーは暗くて重くてぐじゃぐじゃよ」
「ではお母さま、トルストイは「戦争と平和」から始めるのがいいでしょうか、それとも「アンナ・カレーニナ」にすべきでしょうか」
母はまたしても間髪入れずにこう答えた。「勿論、「アンナ・カレーニナ」にしなさい。「戦争と平和」なんてどんぱちだらけよ。おまけに長いし」
母は、ヨーロッパ文明の精華は恋愛と貴族に他ならないと考えるタイプの元文学少女であったのである。そしてマキノは、本人や周囲がどう考えていたにせよ、当時はすこぶる素直で従順であったから、「アンナ・カレーニナ」を借りてきて読み始めた。そして五十ページほど読んだところであっさり挫折し、ドストエフスキーに借りかえた。「罪と罰」は酔っ払いの生態におぞけをふるいながら、とりあえず最後まで読み通した模様である。
この一件からマキノが得た教訓は、トルストイは糞つまらないので読む必要はないということ、母の薦める本は自分には合わないので読むべきではないということ、従って世界文学全集の類は読まなくていいということであった。かくしてマキノは、ポルノのつもりで「ロリータ」に手を出して、しかしどんどん濡れ場的シチュエーションから遠ざかっていくので詰まらなくなってやめたり、エロ本だろうと思ってサドを買ってみて、しかしちっとも陰微なエロでないので失望して机の奥にしまい込んだり、ヤングアダルトと世界の神話伝説をちゃんぽんにして飲んだり、ドラッグがわりにドストエフスキーでラリったり、という自堕落な思春期を送ることになるのだが、父も母も何も言わなかった。両親はただ、マキノがいい成績を取れるかどうかの一点に関心があったからである。そして言うまでもなく、マキノの成績はアクロバットな低空飛行の限りを尽くしていたから、父母は机の引き出しに隠された解答用紙を引きずり出すことにはしばしば成功したけれども、さらにその下のろくでもない本にまでは目が行き届かなかったのである。
――続く。