ハリー・ポッターの国籍問題(5)

「謎のプリンス」近日ロードショーの看板が出ていた。一世一代の大芝居、アラン・スネイプはかっこよく戦ってくれるのかしらん。さて、仕事もドツボにはまって来たので、そろそろ〆たい「ハリー・ポッターの国籍問題」続き。

「本当にあったこと」を詐称する作品と「本当にあったこと」が捏造される物語。

トールキン教授は「妖精物語について」で、妖精物語にあらわれる各種の要素の起源については深入りしても得るところは少ないと述べている。物語とは無関係に要素を取り出して分析しても誤った結果を導くだけ、勿論スープをスープとして、物語をそれ自体として批評するのは結構なことだが、と。つまり、ここで彼が主張しているのは、「怪物と批評家」で「ベオウルフ」の読み方を論じたのと同様、作品に内在する構造やテーマや情緒によって作品を読め、ということであり、「美女と野獣」を「プシケとエロス」の類型に分類して判った気になったり、「ベオウルフ」でアングロ・サクソン期の風俗についての論文を書いたって、それは文学の読解じゃないんだよ、ということだ。一般論としてその通りじゃないかと私は思う。そして、少なくとも一般論のレベルでは、それが妖精物語である必然性はないようにも思う。
ではファンタジーとその他一般の文学との区別は無いのかというとーー必ずしもそうとは言えない。つまり、トールキンはどうして、どちらかと言えば批判的であったにせよ、妖精物語の用例の歴史的変遷や妖精物語の諸要素の起源について、学術的な言及をしなければならなかったのか。そして学術的つっこみはあまり意味がないといった口の先から、「指輪物語」の本文にマザー・グースや古英詩(の改作)をちりばめ、学術的関心からとしか思われない序文をつけたのか。あるいはエンデはファンタージエンと「現実世界」(バスチアンが存在する世界)を明確に区分し、かつ両者に密接不可分な関係が存在することを登場人物に解説させなければならなかったのか。「現実世界」と虚構との関係性を記述しなければならない、という両者の態度は多分無自覚のオブセッションなのだろうと私は考える*1
そのオブセッションが何に由来するかはさておき*2、ここで注意したいのは、ファンタジーにおいて「現実世界」はあくまでも作品の本当らしさを担保するために設定されるものであり、そのために虚構と関係づけられる、という構造上の要請しか求められていないという点だ。つまり、構造上の要請さえ満たされれば「現実世界」が描写される必要性はない。ハリー・ポッターシリーズがファンタジーとしては成り立たないのは、私見では、「現実世界」が描けていないからではなく、「現実世界」(=マグルの世界)と虚構(魔法界)が密接な関係を持っているという設定の作品において、両者の関係性が説得的に描けておらず、ファンタジーが成立するための構造上の要請を満たしていないからなのだ。

むしろ、ハリー・ポッター・シリーズにおいては、「本当にあったこと」への欲求は別の形で展開されているように思われる。例えば、ファンによる膨大な二次創作として。
二次創作というのは、誰かの作品の登場人物や世界を借りて続編なり番外編なりを作る創作活動の謂だが、よく考えればこれも奇妙な風習だ。その活動は、幾つかの認識過程を経て、はじめて成り立つ作品把握を基礎としており、そもそも作品の読解としては偏向している。私が二次創作をしようとしたら、以下の前提に立たなければならない。

  1. 作品Xは物語世界Yを記述したものとして、唯一絶対のものではない。
  2. 物語世界Yは作品Xの記述に関わらず、現実か虚構かは問わないが客観的に存在している。
  3. 従って私は物語世界Yについて、作品Xと同等の正当性をもって記述することができる。

ーーつまりこれは、トールキン教授が「怪物と批評家」や「妖精物語について」で苦情を申し立てた、「スープをスープとして味わうのでなく、骨やら野菜やらの集積として理解する輩」の態度であり、著作権や芸術の独立性になじんだ近代的作者にとっては迷惑きわまりない読まれ方ではなかろうか。言うなればこれは、各種史料からある時代を描き出そうとする歴史家の態度だ。しかも歴史家はふつう、複数の一次史料を用いるので、あんまり露骨な嘘八百は学者生命が惜しければつけないが、二次創作においては、元ネタとなる作品を一次史料として見なすとしても、ソースはほぼそれっきりだ。従って、創作される別伝の範囲はほぼ無限大となる。

ファンがどうしてある作品を二次創作するかと言うと、勿論その作品なりその登場人物なりを愛しているからに違いないが、もう一つには、その作品があるファンにとって二次創作しやすい特質を備えているからだろう。つまり、作品なりその登場人物なりをネタに二次創作してしまうほど(現代においては、二次創作は基本的に日陰稼業であって、どう考えてもオリジナルを書くのに比べて割が合わない)愛していながら、他の部分については物足りないと感じる訳だ。ここで素早く補足しておくと、何を物足りないと考えるかは人それぞれであって、作品の完成度と必ずしも反比例するものではない*3ーー読者の主観的な完成度とは反比例するかもしれないが。ということで、ハリポタから無数の二次創作が派生したとすれば、このシリーズは、あたかも出来の悪い息子のように、多くの読者から愛されたのだ。多分。まあ、つまり、かくして「本当にあったこと」(物語世界Yにおける「大文字の歴史」)が一部読者によって捏造され、その大地の上に多くの二次創作が生い茂ってゆくのである。
ーーと、以上で前振りようやく終了。次回、最終回では文字通り、ハリー・ポッターの国籍問題を論じる予定。

*1:自覚的であれば、もっと方法論を前面に出した洗練されたメタフィクションなりになったろうからだ。

*2:多分五回位ひねれば、近代ヨーロッパに発したあるものの見方なぞと結びつけることも可能かもしらん。

*3:私自身はいわゆる「叙事詩の環」の他の作品の二次創作はやるかもしれないとして、「イリアス」や「オデュッセイア」の二次創作はほぼ確実にやらないと思うにせよ。