2013夏プラハ+ウィーン観光名所うすかわ編(3)

coalbiters2013-07-17

DAY2-1:都市のまじりあう時代について。

睡魔との戦いに敗れて1/4観光日程度を浪費したといえども、プラハ滞在はさらに丸2日ある。世界に冠たる観光名所=プラハ城をハイライトとするなら、初日は遠くから徐々に城に接近して感興を高めるのはどうであろう。願わくば、それにかこつけて存分に街歩きもしたい。とすると、ガイドブックには「新市街の向こう」扱いされているヴィシェフラドが魅力的に思えて来る。そもそもヴィシェフラド自体、母にとって好ましいことに、プラハ発祥の地であるとか、スメタナの曲のタイトルになったとか、そのスメタナはじめチェコの著名な芸術家の墓があるとか、観光名所としての資格は十分に持っている訳である。そして私にとって好ましいことに、プラハ城ほどには観光客はいないであろう。さらに両者にとって好ましいことに、プラハの街はたいそう小ぶりなので、一時間ほど歩くことを厭わなければ、大抵の観光名所には徒歩で行かれるのだ。

旧市街から新市街へ

前日大いに休養したので、朝7時過ぎにはホテルを出発。こんな時間に街を歩いているのは、よっぽど勤勉な観光客か時差ボケの観光客くらいで、街はお掃除タイムであった。

写真左は宿近くの市民会館。あらためて細部を眺めてみると、相当にはではでしい。右は壁のプレート。一部だけ金字になっているのが、何とはなしにそそられる。

旧市街に向かって少し入ったところの黒い聖母の家。キュビスム建築の代表作だそうで、上階にはキュビズム美術館が入っているらしい。1階のショップにレプリカのコーヒーカップなどが売っていたが、シンプルで使い勝手がよさそうだった。

黒い聖母の家から通りに沿って行くと、カレル大学があるが、朝早いので、門は閉まっていた。ちなみにカレル大学の地下には、前回2009年の旅行時に私を魅了した、中世以来増改築されまくって地下に埋もれたらしいあやしい建造物があって、公開されている筈である。写真は大学の中庭に立つ誰かの彫像。それにしても、前回もそうだったのだが、カレル大学の前の通りからそこはかとなく明白なアンモニア臭が立ち上ってくるのは、どうしたことだろう。バンカラ大学生がやらかしているのか。ただの酔っぱらいか。
大学の向かいはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」が初演されたというエステート劇場で、その記念に中のうつろなマント姿の彫像が置かれている。


ところで、プラハは美しい石畳の街である。ただしどの石の角も四角いので、別段歴史的石畳ではなかろうと思う。むしろ、歴史的街並みを想起させるために、プラハの各所で石畳化計画が絶賛進行中であった。ひょっとすると、規模の大きさからして、日本で国交省文化庁から補助金が出るごとく、プラハでもどこかのお役所から潤沢な資金供給がなされているのかもしれない。もっとも、あまり緻密な工事はなされていないと見えて、あちこちで石がぶかぶかし、ごろごろ転がり、その結果、道にはしばしば危険な穴が開くのだった。

ヴァーツラフ広場と新市街庁舎の間のどこかの建物。壁はしばしば絵やら彫像やらで埋め尽くされ、描かれているものの大半は人間である。そうこうしているうちに街のスケールを誤って1箇所見所を通り過ぎてしまったので、新市街庁舎で巻き直しを図る。

真紅の薔薇の美しいカレル広場から新市街庁舎を眺める。プラハの人々は政敵を高いところから投げ落とすのが好きなようだが、ここはフス戦争勃発のもととなった1419年の第一次プラハ窓外投擲事件のあったところで、壁のプレートには、チェコ語の間の数字から判断する限りでは、その事件についての言及があった。そして、この建物の前にも、おそらくチェコ民族運動の英雄か誰かの彫像がある。スフィンクスや女の生首つき。ヨーロッパの都市に人間の像がつきものだとしても、この街ではいささかグロテスクな方向に流れがちではないか。

庁舎の反対側には、チェコ語の説明しかないので詳細不明だが由来由緒のありそうな奇妙な大木が、大切に囲われていた。新しい幹が古い幹を覆ってしまったところだろうか。赤い薔薇と緑の木々と散歩する犬を眺めながら、一回休み。

教会と病院と三色リボン


カレル広場の葉陰から彫像つきの重厚そうな建物が見えたので近寄ってみた。チェコ工科大学。珍しく英語が並記されていた説明板によると、1870年代に建設されたネオ・ルネサンス様式の建築だそうである。門を守る二人の人物はプラトンアリストテレスかしらと思って眺めていたけれども、手にトンカチみたいなのを持っているから、違うのかもしらん。
チェコ工科大学の角を曲がり、川に向かって降りてゆくと(ちなみにそのまま行けば有名なダンシング・ビルである)、聖キリルと聖メトディオス教会がある。1942年に当時チェコの副総督だったハイドリヒを暗殺した実行者たちが立てこもった場所であるとのことで、弾痕もなまなましいその場所には記念碑が掲げられ、灯明があげられていた。内部には関連する展示もあるようだが、日曜日の朝なのでちょうどミサが行われていた様子。

そのはす向かいにも教会めいた由緒ありげな建物があって扉を開いているのだが、こちらは見事に人気が無い。


廃墟というには生活臭ただよううらぶれた感じに引っ張られてふらふら横道に入って行ったら、病院とおぼしき建物の前に出る。ここにも、プレートと国旗色のリボン。

片一方はドクターと読め、もう一方は学生と読め、年代から察するに、先の戦争時の抵抗運動の犠牲者でもあろうか。
駄目もとで学生の名前で検索したら、ウィキペディアの記述に行き当たった。

ヤン・オプレタル(Jan Opletal、1915年1月1日 - 1939年11月11日)はプラハのカレル大学の医学部の学生で、ナチス・ドイツ支配下での反ナチスのデモで殺害された。
1939年10月28日、チェコスロバキア共和国の独立記念祭に、反ナチスのデモと暴動がプラハで発生し、ナチス・ドイツにより鎮圧された。ヤン・オプレタルは腹部を撃たれ重傷を負い、後の11月11日に死亡した。11月15日に行われた彼の葬儀には数千人の学生が参加し、反ナチスのデモが再び発生した。その結果、総督コンスタンティン・フォン・ノイラートはチェコ大学と短期大学の全てを閉鎖し、1,200人の学生が強制収容所に送られ、9人の学生が処刑された(11月17日)。
オプレタルの名前は、彼の生まれた村ナークロに残った。そこには彼の記念碑が残っている。多数のチェコの都市に彼の名前にちなんだ通りが存在する。
このイベントを記念して、11月17日は、国際学生連合(w:International Union of Students)や他の団体により国際学生の日として制定された。
wikipedia:ヤン・オプレタル

とのこと。ドクターの方は、病院のホームページらしきものを見つけたところ、オプレタルの名前と並記されていたが、翻訳かけても詳細は判らず。
かくして歯車は、20世紀前半の建物の前を出発して、街歩きとともに過去にさかのぼり、再び前世紀半ばまで戻ってきたところで、新市街のどことも知れぬ通りに放り出されているのだが、先刻たまたま本屋で

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

という本を手に取ったところ、これがハイドリヒ暗殺に題材を取った本で、冒頭歯車が今まさしくうろうろしている/これからうろうろするあたりに言及しており(「レッスロヴァ通りの右の歩道を下っていくと、教会が」「ヴィシェフラツカー通りとトロイツカー通りの交わる角」云々)、しかも大層引き込まれる語り口であるので、我らの当面の目的地ヴィシェフラドへたどり着くには、まだ時間がかかるかもしれないのである。続く。