変態と格好よさの間。

職場がサマータイムを導入したので、夏は劇場も博物館も行き放題だぜひゃっほう、しかもカフェで一休みのおまけまでつくぞと勢いごんでいたものの、蓋を開ければアフターファイブが楽しみな時を狙いすましたように打ち合わせが入ったり。
三部構成の第三部にアロンソカルメンが置かれ、そこに至るまではクラシックのパ・ド・ドゥと個人が踊るコンテンポラリーやモダンの演目が交互に出現するプログラム。古典作品では、若く美しいダンサーの肉体と動きとをただただ愛で、鑑賞するというのはなるほど乙な趣味であるなあなどという感想がぼんやりと湧き、キエフの王子役とモスクワの王子役は尻の肉付きからして違うのだが、つまりこれは求められる役割が違うからかとしょうもない方に思考は転がっていく。暑いから、脳みそ溶けているのだ。悪しからず。冒頭のキエフ組(フィリピエワ&シドルスキー)の「マルキタンカ」が派手なところはなかったけれども美しかった。
ソロはまず、空間を切り裂く白河直子の「瀕死の白鳥」。音楽や舞台装置が動きと噛み合っていたとは感じられなかったが、黒い舞台を転げ回る白い肉体は美しい。とは言え、ぶっちぎりの変態大賞は当然のことのようにコルプであって、正直言って、振付自体は特筆するようなものではないし、映像とダンスをあわせるという着想は凡庸だし、テーマも今更感は否めないのだが、モノクロなロシアの都市の映像を背景に踊るのが肉色股引ですっぽんぽんチックなコルプであれば、それらすら目鱗的に面白いものに見えて来る。というか、歩き去る巨大な人々の前で全裸(のように見える格好)でのたうち踊る小さなコルプ、というのは意外に斬新な絵だった。私が勝手に感じているところでは、彼には現在に対する何か強い批評精神のようなものがあって、「今・ここをいかに表現し、それをいかにして受け手に共有させるか」「既存の作品を脱臼して、何やら知らん今・ここでしかあり得ない表現を成立させるにはどうすればいいか」にダンサー生命を賭けているとしか思えないところがある。ソロ作品「扉」が前者の愚直かつ強引な純文学路線とすれば、後者は「カルメン組曲」のエスカミーリョで遺憾なく発揮され、――エスカミーリョがいかにキメキメの色男だとしても、あんなアメリカの不良少年みたいな見栄は張らないと思うんだよ。誰か、エスカミーリョが、傍で見ていて「残酷な天使のテーゼ」を口ずさみたくなってしまうような若さの眩しい少年という理解でいいのかどうか、教えてください(笑)。
ルジマトフは相変わらず動きが美しいのだけれども、そこはかとなく若い娘がかっていた(ように私には思われた)。で、今回気がついたのだが、彼の動きは美しいものの、その美しい動きは音楽を殺してしまう類のものなのではないか。その動きの美しさは動きそのものに内在するもので、音楽に触発されて生まれてくるものではない。生演奏で踊られた「シャコンヌ」では動きはまったく音と睦みあえていなかった。音楽が生きていないのは「ボレロ」も同じ。時空間に動きを仕切るための格子が必要なら、ミニマルミュージックでいいのではないか、と。とは言え、「ボレロ」はリズムもメロディーも無視した(主観的には多分無視している訳ではないと思うが)唯我独尊ぶりが舞台装置や照明ともうまく噛み合って、作品を無意味にかっこよいものにしていた。篝火焚いて、背景は真っ赤で、本人はインドの神様みたいな格好であれば、つまりラジャスタンあたりの沙漠におり立った阿修羅王ですか、という訳で、それだけで勝ったも同然である。前述のように何故か少女入っているので、阿修羅王というよりは「あしゅらおう」(by萩尾望都)みたかったが。
第三部の「カルメン組曲」は、第二部までのソロ作品と比べると雲泥の差で、作品の構成や振付自体に力がある。ただ、これを見て「カルメン組曲」を見た、と言ってしまってよいのかは実のところよく判らない。フィリピエワのカルメンは強い意志というよりは愛らしいなかにも凛とした強さがあってすてきだったけれども、上に書いたとおり、コルプのエスカミーリョは昇る朝日の勢いの高校生みたいだし、ルジマトフのホセは、きちんと若者だったし部下だったし、従来何でもかんでも美しさと悲劇に流れてしまうのを、多少なりとも滑稽と(悲)喜劇的な表現に引きとどめる禁欲が感じられたものの、どうにも内向的な伍長なので、ホセと言うよりはヴォイツェクみたいだし。ともあれ、はじめてメリメの原作を読んでみたくなったので、中身の濃い充実した舞台だったとは言えるのではないだろうか。
ええと、一応褒めてるつもりです。