故郷からの10000光年、安全への100,000年

100,000年後の安全@ヒューマントラストシネマ有楽町

映画の紹介を見て、数年前、科学雑誌放射性廃棄物の地層処理についての記事を横目で眺め、眉に唾つけたことを思い出したので見に行くことにした。実は、その時は眉に唾つけるのに忙しすぎて、記事をきちんと読まずじまいだったのである。

原題は「Into Eternity」。フィンランドの十数億年前の安定した岩盤*1を利用して、地下数百メートルの深みに高レベルの放射性廃棄物を密封・廃棄するための処理施設が建設されている。その施設「オンカロ」の運営会社の幹部やフィンランド政府関係者、専門家のインタビューに、建設が進む地下施設の映像を織り交ぜつつ、放射性物質が安全なレベルになるという10万年後まで、施設の放射性廃棄物をどうすれば無事に保管しおおせるかという問題への対処を見せるドキュメンタリー。

よって、大前提として、この作品は、原子力発電(ひいては原子力利用一般)の是非を問うものではない。原発に賛成しようが反対しようが、現に原子力発電施設がこの地上に存在し、過去数十年にわたって稼動してきた帰結として存在する放射性廃棄物をどのように処理すべきか、という、ある意味きわめて実務的な問題への対応を扱っているのである。言うなれば、人間が大量に集まって都市を形成したとして、さてその排泄物をどうするかね、という話に似ている。とりあえず川まで運んで薄めて済ませるか、畑に撒いて肥やしにするか、何らかの処理をするか、その処理は浄化槽なのか下水道を引いて大量に処理するのか、選択肢はいろいろあるけれども、少なくとも各人が窓から下の道路に捨てておしまい、というのだけはマズイよな、ということは同意されている。そして放射性廃棄物は、人間の糞尿とは違って、よい肥料になる訳でも、超高度に処理すれば飲料水になる訳でもないので、どこか安全な場所に長期間保管するより仕方なかろう、という点も同意されている。そりゃ、ロケットで打ち上げて太陽にぶち込んでしまえば問題は全て解決だが(たったひとつの冴えたやりかた!)、さすがにわたしゃそんな博打は勘弁だ。

……そのような手法も含め、あらゆる可能性を検討したのだと、映画の中の専門家たちは言う。その中で最も確実な選択肢として、地下への密封が選択された。監督が「オンカロ」の幹部にたずねる、第三者としてこのプロジェクトを評価する時、懸念する点は何か。相手は数瞬の間を置いて答える。「何も」

映像は美しく、かつスタイリッシュである。内容を全て聞き流してぼんやり眺めているだけでも十分楽しめる。時には決めすぎてやりすぎではないかと思う場面もある。処理工場の青いプールにゆらめく燃料棒とか、白いクレーンの前を行き交う白い防御服のスタッフの背後から、ぴこぴこいう音とともにクラフトワークの「Radioactivity」の歌声がうつろに湧きあがって来た時などは。工場とか機械というものはそもそも萌えるものなのだ。ドキュメンタリーの作者がずるずるとフェティシズムに溺れてしまってどうする。それとも、ひょっとしてこれはなまぬるい絶望の表現なのか。あくまでも安全を主張する神のごとき専門家と、放射性廃棄物処理問題のあまりの重さに無力にも押しつぶされ、毒にも薬にもならないSF的映像に逃げた図、なのか。


専門家は言う。「我々の推測では、六万年後に氷河期が来る。このあたり一帯はツンドラに覆われる」カメラは地下のトンネルの壁を舐めるように撮っていく。壁面の凹凸は警告を発する怪物のようにも、未知の文明の碑文のようにも見える。施設が完成し、密閉されるのは22世紀に入ってからだ。そして言うまでもなく、十万年前には現生人類はおらず、ヨーロッパにはネアンデルタール人が暮らしていた。監督は「君」に向かって話しかける。つまり、警告を無視してこの施設に入り込んでしまった遠い未来の誰かに。
――SFだ。とまとめるのはたやすい。

しかし、この作品は「SF的な」の一言を微分していく。技術的に、実務的に。問いかけとそれへの回答によって。ゆるやかなリズムの映像を、複数の視点のレイヤーを繰り返し重ねることによって。

先ほども言ったとおり、ここにあるのは政治的な問題ではない(だから、この映画に人々は出て来ない。出て来るのは一人か二人、せいぜい数人の人物だけだ)。ただ、「高レベル放射性廃棄物を10万年後まで安全に保管するためにはどうすべきか」という課題があるだけだ。そして、保管場所をめぐる検討は早々に終わる。この映画の中で何度も何度も問題にされるのは、天災ではなくて人災である。未来の人類が、何も知らずに、あるいは何かを知っているために「オンカロ」を開封するかもしれない。その最大の危険をどう防げばいいのか。問題は、ここでコミュニケーションに関する課題に転換される*2。情報学の問題であり、心理学の問題であり、図像学言語学の問題であり、考古学や歴史学の問題でもあり、ひょっとすると造形芸術の問題でさえある。国連公用語によるロゼッタ・ストーンがいいのか。ドクロマークがいいのか、それとも針山のモニュメントで周囲を囲むべきか? 情報を伝えるにあたってアーカイブは役に立つのか。ムンク「叫び」は普遍的な警告たり得るのか?

そこのあなた、理系の技術者だけの問題ではないんだよ。

「正しく伝え、警告するためにはどうすればいいか」と考える一群がいる。他方、オンカロの幹部の一人は率直に語る、自分は伝えずに忘れてしまうのがよいと思っている。何も伝わらなければ好奇心の発揮される余地もない。
誰がどこまでを責任もって設計すべきなのか、という問いもある。専門家たちが様々な可能性を想定して議論を重ねる一方で、政府関係者は、次の世代に正しい情報を伝えていくのは、それぞれの世代の責任だ、と言う。しかし同時に、国民はこの問題にそれほど関心を持っていません、とも言う。

何度も言うように、これは政府の無責任や専門家の傲慢を告発する映画ではない(何しろ舞台は鹿がさまようひとけの無い美しい雪原だ)。カメラはただ、不確実な状況の中で、課題の解決のために何かを選択しなければならず、口ごもる人物たちを示す。計算しつくされた色彩設計の中で、結局のところ「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」というレベルの、無意味な発話をせざるを得ない人物たちのあきらめ顔を。

ということで、パンフレットは無いし、チラシも聞かないと出してくれないほどの緊急上映ぶりで、しかも連日満員と言いつつ多分箱自体が小さいので、どちらかと言うと原発問題に関する意識の高い人が多く見ているのではないかと推測するのだが、それにとどまらず、さまざまな問題系に接続する示唆に富む作品だと思う。だから、緊急上映で、結果的に原発問題と短絡的に接続されることで、問題系が矮小化されかねないとすれば、少々残念でもある。
映画『100,000年後の安全』

おまけ。

このブログのタイトルの元ネタ「ビームしておくれ、ふるさとへ(Beam Us Home)」が収録されている短編集。スラプスティックなのと辛辣なのと切れ味鋭いのとノスタルジックなのがいい塩梅に混じっている。
――ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの作品は、SFとまとめるのはたやすい、とまとめるのはたやすい。という証拠の一つと思う。要するに、たやすいことなど、多分滅多にないのだ。

*1:という風に映画では言っていた。氷河期が終わった後、氷の重しがなくなった影響で地面が上昇したりしていると思うだが、その辺の影響をどう見積もっているのかは不明。

*2:勿論、議論全体の枠組みには哲学も関わってくる。プロジェクトに関与する専門家には当然のように神学部教授(?)もいる。