ハリー・ポッターの国籍問題(4)

ファンタジーとしてのハリポタの条件

一方、「本当にあったこと」と「現実」とのリンクを文体や文献学的処理、ではなく、作品中における登場人物の動向で示す方法もあり得る。
たとえば、「ナルニア国物語」では、視点人物*1である子供たちが洋服だんすから異世界に入り込む。また「はてしない物語」でも、バスチアン少年は自分が読んでいた本の世界に入り込んでしまう。

さて、以上のような前提をおいてファンタジーとしてのハリー・ポッターシリーズを論じると、どうなるだろうか。
まず、ハリー・ポッターシリーズは、手記や何らかの記録として書かれたテキストではない。つまり、「書かれたこと=真実」の擬制によって「本当にあったこと」を担保している訳ではないことになる。あるいはハリー(又は別の誰か)の夢や幻想であるとする解釈も成り立たない。確かにシリーズの大半は三人称とは言え実質的にハリーの視点で語られるが、ハリーの主観に限定される訳ではなく、要所要所*2では名無しの説明者が物語の肝となるエピソードを描写してくれるからだ。読者に提示されるのはある世界に関する描写だ。
従って、ハリポタをファンタジーとして享受するためには、記述される作品世界について、作品中の記述をもとに、読者が「本当にあったこと」と認定する必要がある。その点では、ロンドンの駅のプラットフォームから主人公が魔法世界へ出発するこのシリーズは、洋服だんすが異世界への扉である「ナルニア国物語」と同じカテゴリに分類することができるだろう。
ただし、「ナルニア国物語」とハリポタが大きく異なる点がある。すなわち、前者では異世界への訪問は偶発的であるのに対し、後者においては、なるほどホグワーツに行けるのは魔法使いだけ、という限定はあるにせよ、システムは確立されており、訪問は偶然ではないということだ。さらに、ハリポタにおいて魔法使いと人間の関係は断絶したものではなく、人間の子供が魔法使いになることもあるし、その逆もありうると説明されている。確かウィーズリー家の親戚の誰かは魔法の才能がないので会計士だかになったのではなかったか。とすれば、魔法界と人間界は(当事者たちがそれを喜ぶかどうかは別として)隣人どうしなのであり、近所づきあいにおいて必然的に予想されるさまざまな摩擦や紛争を回避するためには、当然かなり高密度な連絡調整手段が確保されていると考えるべきだろう。たとえば国籍の問題だ。

ここで私が議論しているのは、異世界ファンタジーにおける設定マニアの問題ではない。実際のところ、異世界の度量衡が整備されていようがいまいが、自分で設定したルールに忠実でさえあれば、そんなことはまあ、どうでもいい訳だ。それとは別に、ファンタジーを仮に「自身を本当にあったことと詐称しようとする虚構」と定義するならば、紙の上の虚構を現実と陸続きのものに見せるトロンプ・ルイユ的な機構が必要だろう、ということなのだ。そしてその機構が作品における事物の説明のされ方によってのみ作動するなら、その説明がきちんとされていなければファンタジーとは言えないだろう、ということなのだ。ハリー・ポッターシリーズにおいては、上で検討したように、その機構は人間界と魔法界との関わりの描写の中に存在するはずである。もしその描写がないがしろにされているならーー私はないがしろにされていると考えているがーーハリー・ポッターシリーズは少なくとも私の定義にとってはファンタジーでない。ひょっとするとB氏によればファンタジーなのかもしれないが、B氏の定義を私はまだ聞いていないのだ。さらに続く?

*1:ここで言う視点人物とは、その人物を言わばカメラとして読者が作品世界を観察できる機能を持つ登場人物というほどの意味。心理状態も含めて詳述され、読者に近しい存在として設定されることが多い。

*2:例えば第1巻冒頭。